気になるひと③


 数十分後。

「失礼。入っても?」

 歌仙は、障子の向こうにいるであろう主に、入室の伺いを立てた。

「兼定さんですね。ちょうど良かった、ご相談したいことがあって。入ってください」

 この本丸、造りは日本家屋だが、灯り等は文明の利器を用いている。障子の向こうは電気が点いており、月にも星にも負けない明るさである。そのおかげで障子を開けたら、の姿がはっきりと見えた。

 目が、合う。

 風呂上がりすぐに書類に手をつけたのだろう、の髪はまだ濡れていた。しっとり濡れた黒髪と襟元を緩めた浴衣姿に、一瞬、先程の妄想が頭に湧き出す。しかし、歌仙は動じない。平手打ちと井戸の水を頭から被ることで、煩悩を断ち切っていたのだ。今の心を例えるならば、風の凪いだ静かな湖面といった表現が適切だろう。

 勢いよく障子を閉めてしまったが、至って平常心だ。誰が何と言おうと平常心だ。歌仙は咳払いし、気を取り直す。

「……ああ、どれどれ?」
「新しく仲間になった山姥切国広さんなのですが──」

 そこからと歌仙の、会議と言う名の相談会が始まる。

 刀装はどのような感じか。きちんと効果を発揮しているのか。

 敵はどのような刀でやってきたのか。また、刀装はつけていたのか。

 どの道を通って敵陣へ辿り着いたのか。

 内番をどうするべきか。仲の悪い刀はいただろうか。

 から見た様子と、歌仙から見た刀剣男士たちの様子を話し、快適な場になるように擦り合わせていく。

(このような場でなら、言い争いはないんだけどね)

 はただ純粋に、歌仙たち刀剣男士のことばかり考えている。朝早くから夜遅くまで起きて、出陣の指揮やら何やら大量の仕事を裁いているようだ。

 そのせいで自分のことは疎かになる傾向がある。歌仙は会話をしながら、の濡れ髪を観察していた。

 やがて。一通り相談が終わった頃。ほんの数秒だが沈黙が訪れた。

「──兼定さん、」
「何かな」
「近いです」

 気付けば、机を間に挟めて、互いに身を乗り出していたらしい。書類から顔を上げると、主としっかり目が合った。睫毛の1本1本数えられそうな距離である。

「あの、近いです」

 はもう一度そう言った。頬に吐息がかかる。

(何を今更……と言いたいところだが)

「そうか。すまなかったね、今退くよ」

 歌仙は苦笑した。静かに離れると、は襟を正すところだった。

「……ました……?」

 俯きながらが何かを問うた。しかし、小声で聞き取ることが出来ない。

「すまない。何だって?」
「いえ……、気にしないでください。多分大丈夫です」

 要領を得ない答えだが、歌仙は深く追及しなかった。

「それで、ええと。今日の会議はお仕舞いです」
「そうかい。それなら、僕は退室するとしよう」

 いつもなら、そのまま事務的な連絡のみで解散なのだが。今日は違った。立ち上がりかけたら、着物の裾を引かれる。

「歌仙、さん」

 がか細い声で名を呼んだ。

「……、昼間はその。感謝をしてないこともない、です」
「すまない。どっちかな」

 本当は分かっていたのだが、敢えて嘘をついた。

(素直ではないんだね)

 笑いだしてしまいそうだ。口角が上がってしまう。

「その、」

 歌仙は畳に座り直した。そして、目を逸らすことなく見つめる。近くでを見たかったからだ。

「昼間は大変感謝しております私が用意した堆肥のせいであなたに予想外の被害を被らせたことをお詫びします」

 がとても早口に息継ぎもなく言い切った言葉を、歌仙は一言一句聞き漏らさなかった。

「つきましては、何かひとつ、私の出来る範囲で願いを何でも叶えましょう」

 これが彼女なりの謝罪、そして譲歩なのだと理解する。

(何でも、か)

 少し迷ったが、決めた。

「そうだね。僕は畑仕事をした上に、君を庇ったことでいらぬ被害を被った。だから……」

 歌仙はを引き寄せた。

「おいで。濡れたままでは風邪をひく。髪を乾かそう」
「すみません。どういうことですか」
「主の髪を乾かすことが、僕の叶えてほしい願いかな」
「おかしな願いですね」
「僕らのことを気にかけるのはいいが、自分の身の回りのこともしっかりやってくれないか」

 歌仙は、の頭に触れた。そのまま赤子をあやすように優しく撫でた。

「君は僕の大切な主なんだ。いなくなったら大変だ」

 はここで目線を逸らし、

「分かりましたよ」

 ぽつりと呟いた。

 顔を赤く染めていたのを、歌仙は知らなかった。


***


 障子を開けて空気を入れ替える。夜空と屋敷の庭がよく見えた。

 布での髪を丁寧に乾かしてやる。言い争いもない、いい夜だ。

「夏になるとはいえ、まだ少し冷えるね」
「そうですね。うっかりしていました。次からは気を付けます。風邪をひかないように」

 2人の目線は、自然と空に浮かぶ月へそそがれていた。今夜は三日月だ。

「三日月も雅なものだね。満月は完全無欠で綻びがないけれど、三日月や半月は、それはそれで風情があるよ」

(おや。これはいつだったか、似たようなことがあった気がする)

 歌仙は遠くを見て、思い出す。

 まだ2つ目の隊がなかった頃。
 歌仙兼定、へし切長谷部、小夜左文字、五虎退、にっかり青江で隊を結成し、戦を駆けずり回っていた頃。

(主の部屋で月見酒をしたことがあったような)

 は酒を飲むのを遠慮した。長谷部と歌仙で、嗜む程度に飲んだ記憶がある。

 そして、言ったのだ。

(主は月のように優美だね。主で一首、作れそうだ)

 そのようなことを言った気がする。

 それからかもしれない。と歌仙の言い争いが頻発するようになったのは。

「──主、」
「はい?」
「月は嫌いかな」
「別に。普通です。……兼定さんと見るのは、まあ、嫌いではないですよ」

 何となく、訊くのはやめにした。このまま穏やかな夜が続けばいいと思ったからだ。

 まあ、このあとまた、言い争いが勃発してしまうのだが(月に兎はいない。月は太陽の光を受けて光っているのだとか。そんな夢のない話をするな、想像力がないなどと応酬が始まった)。

 その日は歌仙にとって、悪くはない夜だった。