恋は熟れていた①


 鶯丸。

 その刀は、鶴丸国永や一期一振、三日月宗近といった、現世に縁を結びにくい刀剣男士の一振りだ。

 政府の作ったこの鍛刀システムは、穴が多くて欠点だらけである。

 例え話だが、一期一振を狙って鍛刀する過程で、他の粟田口短刀や、既に顕現している打刀がダブるのは珍しくもない。重ねて言えば、任期1年にも満たない審神者がいきなり天下五剣である三日月を顕現させる一方で、3年経っても大太刀の蛍丸を呼び寄せられない審神者がいるのだ。

 まあ、このシステム自体、科学とオカルトと偶然が重なって出来た奇跡の産物なので、政府に改善を迫っても実現しないのである。これ以上の言及については、のような鍛刀の才能と運に恵まれない審神者の方が増えるだけなので置いておくとして。

 の本丸には、縁を結びにくい刀剣男士、鶯丸がやって来たのだった。

「なんだか不思議な御仁()だねえ」
「君がそれを言うのか」
「うん? 僕ほど分かりやすい刀もいないんじゃないかなあ?」
「……」

 鶯丸は縁側でお茶を飲みながら、古くから交流があったらしい平野藤四郎と歓談している。2振りの様子を遠くで眺めたあと、邪魔をしないようにそっと厨に戻るのは歌仙と青江だ。まだ料理の途中なのである。
 ちなみに、鶯丸が飲んでいるのは玉露だ。いつ彼が来てもいいようにとと平野が選んで買ってきたもので、何でも元禄時代から続く老舗の商品らしい。いつもは無駄遣いに煩い長谷部ですら、ひと口飲んだあとに「こればかりは仕方ありません。良いでしょう」と許したほどである。きっと鶯丸も気に入るだろう。

「しかし、どうして鶯丸が? 主は今、鍛刀しているのか」
「あの冷徹“様”からの課題らしいよ。さっき、新入りの案内をしていた長谷部君から聞いた」
「ふうん」

 は課題を成功させたらしい。とりあえず、1つ目は。

 歌仙は冷徹の名を聞いた途端、不快さをその涼やかな顔に滲ませた。もう少し煽ると露わにした額に青筋が浮かぶのだが、この時ばかりは空気を読み、青江は何も言わないでおいた。足音が強まったせいか、床板の軋む音が少しばかり煩い。

「言葉が違うのは百も承知だけど、火事場の馬鹿力なのかな。制限回数は5回だったらしいけれど、主は最後の最後で鶯丸さんを鍛刀したらしいんだ。さすがだね」
「……そうだね」

 歌仙の頬がひくりと動いたのを、青江は見逃さなかった。

「これで結婚からはひとつ遠ざかったわけだね」
「ああ、そうだね」
「僕は主に結婚するなとは言わないよ。歌仙君、君はどう?」
「まあね。同意するよ」
「相手が相手だからね」
「まあね」
「主はあの審神者を好いているようには見えないし」
「まあね」
「歌仙君ならまあ、相手に申し分ないんじゃないかな。お似合いだよね」
「まあ――、青江」

 名前を呼ぶ声が険しい。青江は歌仙と目を合わせようとはしなかった。問い詰めれば、口笛でも吹いて誤魔化そうとするかもしれない。

「僕は、別に……主は好きだけどそれは持ち主だから、」
「はいはい。小夜君に歌を贈るのを指摘されたのにね」
「青江」
「いやあ、面白いね」
「あ、お、え?」

(僕はちっとも面白くないんだが)

 こちらはつまらない嫉妬で物に当たってしまったというのに……。

(ああ、そうだよ。つまらない嫉妬だよ。山姥切国広にも、あのいけ好かない審神者にも)

 時折、思うのだ。

 自分は、顕現してから随分と変わってしまったのだな、と。
 人間が生み出す雅な文化には興味があったし、刀として自身を存分に振るうのも苦ではなかった。どちらかと言えば、武器よりの思考をしていたようにも思う。

(だが、今はどうだ。まるで人間のように恋をしているじゃないか)

 人間が生み出す“もの”に恋い焦がれ、愛で、慈しんではきたが。
 今は、個に恋い焦がれ、愛して、愛されたいと願っている。

(まるで本当に人間になったみたいだ)

 そんなことを思いながら、厨に入ろうとした時だった。

「……兼定さんが」

 歩みを止めた。その名を呼んで欲しい人の声がした。

「まだ、本丸が私と彼だけだった時、新しい刀剣を鍛刀しようとしたんです。ですが、ちょっと手間取ってしまいまして」

 は誰かと話しているようだ。自分を呼んだわけではない。話題に上がっただけだ。

(話し相手は……加州清光か、山姥切国広か。いや、手伝いをしていたお小夜たちもいるのか)

 どうしてが厨にいるのだろうか。

この本丸では、「美味い飯を食いたいならば主を厨に入れるな」というのが暗黙のルールである。
 足の裏に粘着テープを貼った覚えはないのだが、なかなか一歩を踏み出せない。

(これじゃあ盗み聞きじゃないか)

 青江は歌仙の姿を何も言わずに眺めている。彼も厨には入ろうとしない。

「いけないことをしてしまうね。……盗み聞きのことだよ」
「それ以外に何もないだろう……?」

 脱力するが、歌仙はその場に突っ立ったままだ。引き返すという選択肢もあるはずだが、主が暖簾一枚隔てた向こうにいるのだ。会いたいようなそうでないような気持ちがない交ぜになって、歌仙の思考と行動を留めてしまう。
 話を聞いて分かったのだが、は先程の課題について語っているらしかった。鶯丸を顕現出来たことについて、刀剣男士から訊ねられたようだ。

「『もし迷っているのなら、ここは心の赴くままに、数字を決めれば良いと思うよ』と助言を貰ったんです。それってつまり、勘ですよね」

 それもまあ風流だと続けられたので、勘と風流の共通点を問いただしたかった、とは若干の呆れを含ませて気持ちを述べた。すると、彼らしいね、という好意的な笑いが返ってくる。

(歌仙君、そんなこと言ったんだ)
(うん、言ったね)

 何故か青江が小声で問うてきたので、歌仙も自然に声量を落とす。

(主、本当に困っていたんだ。あのままだと悩み抜いて1日が終わるって思ったら、勘でいけと進言しただけで)
(へえ~)
(結果的に君と小夜が来たんだぞ。僕に感謝して欲しいね)
(ああ、それはそれは……ありがとう?)
(半分疑問形でお礼を言うな)

 は恥ずかしそうに笑うと、こんなことも語り出した。

「……あの時は何も思わなかったんですけど、今回ばかりは助かりました。偶然でも何でも、兼定さんの言葉を思い出したら、肩の力がすうっと抜けていったんです」

「兼定さんとは喧嘩ばかりですけど、心から嫌っているとか、そういうのではないんですよ?」

「兼定さんは、私の最高の近侍です。だって、彼がいなきゃ、私は今の私ではなかったのですから」

「彼といると、私、飾らないでいられるんです。“審神者”とか“主”とかの一面じゃなくて、もっとその向こう、“”という私を見せられるというか。……主としては失格かもしれません。でも、それでも……、兼定さんがいると安心出来ます。彼が初期刀で良かったな、と何度も思ってしまうんです」

「何があったのか、ですか。ふふ、それは、内緒です。清光さんにも山姥切国広さんにも、ああ、小夜君にも今剣君にも内緒です。兼定さんも知らないので、これは私だけが知っている秘密、です」

 えええ~、と今剣と加州の不満の声が重なる。主のその内緒の部分が知りたいんだけど、と食い下がるのだが、は絶対に明かさなかった。

「――最高の近侍だって。これ以上の誉はないよねえ、歌仙君」
「……う、」

 雅なお顔が真っ赤だよ、と青江は野暮な指摘しない。

「煩い……」

 青江は歌仙に答える代わりに厨へと入った。

「やあ、僕もお仲間に入れて欲しいな。――あれ、主は厨に立ち入り禁止じゃなかったかい」
「お、青江じゃん。主はここでお茶飲むだけ。料理させるわけじゃないから良いでしょ?」
「あら、にっかりさん。あなたもお茶、飲んでいきませんか」

 あっという間に談笑の輪に加わった青江は、

「うん、飲もうかな。もう一振り誘っても?」
「ええ、どうぞ」
「ほら、歌仙君。おいでよ」

 暖簾の隙間から顔を出し、歌仙の腕を掴み、こちらに引っ張り込む。

「良いよね、主」

 厨の出入り口を背に腰掛けていたは、歌仙の姿を見るなり目を丸くしていた。感情が表に出にくい彼女にしては珍しい反応だった。

「兼定さん、」

 拗ねているのが馬鹿みたいだ。

 ……今回の喧嘩は、自分の方が悪いと分かっている。子どものように拗ねて、素直に心の内を明かさず、察してくれ、構ってくれ、と甘えてしまう自分が悪い。の指摘が図星であるからして、それを認めたくなくて、屁理屈に屁理屈を重ね、口喧嘩はヒートアップした。

「主。いや、様」

(僕は愚かだ)

 何度も何度も口喧嘩をしているというのに、は歌仙を嫌いはしない。寛容とは少し違うようだ。では、何なのか? それは歌仙には思い至らないものだが、こればかりは分かる。
 最高の近侍、と評価されたからには拗ねている場合ではない。

「ちょっと、良いかな。2人で話がしたいんだ」
「え、ええ」

 は歌仙に促されて、厨から廊下へ移動した。
 青江、加州、今剣は野次馬根性で厨の出入り口へにじり寄ると、気配を殺し、一言一句音を逃すまいと聞き耳を立てる。やや遅れて、山姥切国広も彼らの輪に加わった。鳴狐のお供である狐は「いやいや、皆さんみっともないですよお」と嗜めるが、「しっ」と人差し指で鳴狐に口元を軽く押さえられた。実は彼も気になるらしい。小夜は小夜で、素知らぬ顔で茶を啜っている。その胸中を知るものは誰もいない。

 さて、厨の向こうの動向など露程も知らぬ歌仙は、もう一度の名を呼ぶと、突然傅いたのだった。これにはも大いに慌てた。

「一体どうしたというのです?」
「これまでの非礼を詫びる」
「え?」

 なんとも間抜けな声が、の口から漏れ出る。ついでに、目をパチパチと瞬いた。明日はついに雪かもしれない。それも、真っ赤な色の。

「君が言うように、確かに僕は子どもっぽい」
「兼定さん、急にどうしたんですか」
「どうしたというより……、君がどうしたんだ?」
「私?」
「僕のこと、最高の近侍だと言ってくれたじゃないか」
「それは……。あの、聞いてらしたのですか」

 狼狽えているのが手に取るように分かった。本当に珍しい。出会った頃は喜怒哀楽の表情を欠片も出さなかった主だったのに。

「……何回も言ってますよ。あなたのこと、嫌いじゃないって」
「そうだったね。僕も、君のことは嫌いじゃないよ」
「ええ。そのままの私でいられるのは、あなたの前だけです。さっき言ったことも、嘘偽りはありませんよ。本心です」 

 は歌仙に面と向かって“最高の近侍”と褒めたことはない。照れくさいのもあるが、口喧嘩を始めることが多いので、胸の内を明かす機会が少ないのだ。

「僕は……。君の言うことは耳に痛いけれど、的確なんだよ。だから、己を見直すきっかけになるんだ」

 僕はね、と歌仙は口を開いた。

「僕はね、主。我儘なんだ」
「ああ、はい。それは分かります」
「それに、嫉妬深い」
「……そうなんですか」
「そうなんだよ」

 くすぐったいとでもいうように、歌仙は微笑んだ。

「妬いた」
「え?」
「僕が戦場に出るのがきっかけだったとはいえ、近侍を交代するのが嫌だった。特に、山姥切国広には」
「……? 他の子には?」

 が首を傾げる。

「どうして彼だけ?」
「うん、まあ……。だって、君のことを知りたい、とか。……僕が素直に言えないことを平然と言ってのけただろう?」
「……まあ、はい」
「僕だって、知りたいよ」
「私のことを?」
「ああ」

 歌仙は傅いたまま、の手を取った。自分の手より随分小さな手だった。おおよそ戦いには向かない手だ。は拒みもせず、歌仙の行為を受け入れた。手が重なると、2人分の温もりがゆっくりと掌から伝わっていく。

「僕らは、相互理解が足りないんじゃないかな。知らないことがありすぎる」
「刀剣男士も増えたから、2人だけで話す機会も少なくなりましたしね」
「そうじゃなくて。いや、そうでもあるのだけど……」

 言い淀む歌仙。
 雅ではない。自分が思い描く告白には歌が欠かせない。出来れば月の美しい夜が良かった。今、この感情のままに任せて明かしていいものだろうか?

(しかし、それでは駄目だ)

 自分の気持ちを伝える手段は何だっていい。
 だが、伝える前に伝える機会を失ってしまえば、その想いはどこへ行く。
 無闇に捨てられるものではないだろう。

 愛はある。見返りのない愛が、自分の胸にはある。幸せになって欲しい。確かにそう思っている。
 幸せになって欲しいが、それは、少なくとも他人の隣ではなくて、

 ――自分の手で、

「僕はね……。僕は、君をあの冷徹に渡すつもりは、毛頭ない」

 時が止まった。と歌仙の間で。

「結婚なんてさせない。あの審神者に君を渡しはしない」

「僕は我儘なんだ。刀剣として最高だと評価されたのは、恐悦至極。これ以上の誉はないさ」

「でもね、僕は君に……、もう1つだけ、自覚して見てほしいことがあるんだ」

「君が結婚してしまえば、それは叶わなくなる。君の、様の刀として、そして……、」

 そして、

「君を愛するひとりの男として、君を守りたい。いや、守らせてくれないか」