この事態を誰が予測しただろうか②
イレイザーさんに連れられてやって来たのは、仮眠室だった。眠くて眠くてどうしようもならない場合、許可さえあれば生徒はここで仮眠を取れるのだ。まあ、あまり使われていないらしいが。……滅多に人が来ない仮眠室に来たってことは、これはやはり合理的後輩指導という名の説教なのでは……? うっ、赴任当時の悪夢再び……。
些か緊張しながら、私はイレイザーさんの向かいにあった椅子に腰掛けた。
「何か飲むか?」
「コーヒ……いえ、私が淹れますよ」
言いかけて訂正する。先輩たるイレイザーさんを顎で使う真似はできない。
「いや、今回は俺が淹れよう」
「でも、」
「座っていてくれ。この議論に費やす時間が勿体ない」
「……。はい、ではお言葉に甘えて」
彼は慣れた手つきでコーヒーを淹れてくれた。お湯を注ぐだけでできるインスタントコーヒーだが、芳しい香りを売りにしている商品だ。好みが分かれるのだけど、私は結構このコーヒーが好きだ。
お礼を言って、湯気を立てるマグカップを受け取った。イレイザーさんは砂糖とミルクを用意してくれたようだが、今回はブラックで飲みたい気分である。舌を火傷しないよう、息を吹きかけてコーヒーを一口飲む。……ああ、やっぱりここのメーカーのコーヒーは好きだな。
ほっと一息ついたところで彼が話を切り出す。
「で、昼のことだが。単刀直入に言おう」
そこで言葉を切り、じっと見つめられた。やはり落ち着かない。見つめられるのは、慣れない。
数分の沈黙のあと、イレイザーさんは静かに口を開いた。
「付き合ってくれないか」
「付き合う?」
買い物にでも付き合えばいいのか? スーパーマーケット? ショッピングモール? はたまたコンビニ? なんにせよ、叱られるわけじゃないのね。
「いいですよ」
「マジか」
「それで場所は?」
明るい顔だったイレイザーさんだったが、私の答えを聞いた途端、いつものローテンションに戻ってしまった。
何で?
「待て。お前は何か勘違いをしている」
「え」
「場所の話ではないのだが」
「違うんですか」
イレイザーさんは疲れたように目を覆い、天井を仰いだ。待って待って。話が見えない。
「す、すみません……」
「いや、いいんだ。俺が悪い。お前は悪くない」
「は、はあ」
あ、でもよく考えれば、買い物の付き添いを頼むために仮眠室なんて選ばないか。じゃあ何だ? コーヒーを飲みつつ考えてみる。
付き合う。
付き合う。
……付き合うって、まさか。
恋人的な? いや、まさか。
「付き合うというのは、男女交際という意味で、」
「ぶふうっ!!!?」
コーヒー噴いた。
黒い液体が見事な放物線を描いて床に落ちた。うわっ、汚っ!? 咄嗟に横向いたからイレイザーさんにかからなかったけどさ!
「げほげほっ! す、すみませ、げほっ」
「……ほら、ティッシュ」
「すびまぜ……」
受け取ったティッシュで口を拭い、床の掃除に取り掛かる。イレイザーさんも手伝ってくれた。面目ない。
しばらく無言でコーヒーを拭いとっていたが、
「……イレイザーさん、交際って合理的虚偽じゃなくて……?」
さっきの話が気になって気になって仕方ない。
「俺が嘘をついて何かメリットがあるのか?」
「マイクさんと仕掛けたドッキリという可能性があります。楽しんでいるのかと」
「ねえよ。俺がアイツと組んでドッキリ仕掛けるように見えるか?」
「見えません」
「なら、そういうことだ」
コーヒーを零した床はあっという間に綺麗になった。シミひとつない。
ふと頭を上げれば、イレイザーさんと視線が合った。
伸ばしっぱなしのボサボサした髪、無精髭、充血気味の目……。何だかここ一週間、ずっと彼と目が合っていたような気がする。
「……俺はドライアイだろう」
「ええ、よく目薬を差してましたね」
「パソコンなんか長時間見ると辛いんだ」
「分かりますよ、私も結構辛いです」
待って何の話かしら。
「辛いんだが、お前は別だ。お前のことはずっと見ていたいと思うようになった。ここ最近で気づいたことだ」
「……」
待って。
「私、パソコンじゃないですし」
「それはそうだ」
「まだ教師として危なっかしいから、目が離せない、という感じでしょうか」
「そうではないと思う。が、これが恋愛感情なのかは理解できない。なにせ、初めてだからな」
「はい?」
「俺は恋愛なんぞ非合理的だと考えている。手間も時間もかかる」
だけど、私が赴任してきてから、イレイザーさんは戸惑うことが多くなったらしい。主に、感情の面で。
「これが世間一般で言う『恋愛感情』なのか分からない。そんな経験がない。だから、確かめさてくれないか」
「つまり、えーと……、ずっと私を見ていたくなる原因は恋愛感情か、と」
「ああ」
「手間暇かかるのに?」
「原因追求にそれだけの価値がある」
待って待って待って。ナニコレ。私、口説かれてる? イレイザーさんに口説かれてるのか? マジですか? ひぇぇ……。
「……あ、だから私の“個性”が魅了かと確認したわけですね」
イレイザーさんはうなずいた。なるほど、魅了のせいで好意を抱いたと考えたのか。
そんなことしませんから! そんな“個性”だったとしても、絶対私的に使わないわ!
「私の“個性”、ご存じですよね」
「スライムヒーロー『』。“個性”はスライム。身体の任意の部分をスライムのように変形させ、主に人命救助で活躍するプロヒーロー」
「どこに魅了の“み”の字が? 誰彼構わず魅了するカルい人間に見えます?」
「それは悪かった」
ホントですよ。ヒドいですよ。
「教職に慣れない頃。感情が昂ぶって全身スライム化しそうになった私を、イレイザーさんの“個性”で助けてもらったこと、何回もありましたよね。忘れたんですか」
「あったな。お前、プレッシャーに弱すぎるだろ」
「ひ、ヒーロー活動と教職はまた違うというか!」
「おい、“個性”を発動させるな」
どろり、と指先から粘液を持った水のような、ゼリーのような物体に変わりかけていた。やばい。感情が昂ぶると、否応なしに全身スライム化してしまうのだ。
指・腕・肩がスライムに変化しかけて――止まった。
「……すみません」
イレイザーさんが“個性”を使っている。髪が逆立ち、隠れがちな両目が露わになった。彼の「抹消」という“個性”のお陰で、私は全身スライム化しなくて済んだのだった。
全身スライム化すると服が脱げるし、動きが鈍くなるし、意思疎通がしにくいし、デメリットが大きい。
「お前が来た頃を思い出すよ」
落ち着いたところで、イレイザーさんが瞬きをして“個性”の使用を止めた。見ると発動して瞬きすると解けるのだ。彼がドライアイなのは職業病みたいなところがある。
「その節は大変お世話になりました……。って、今回のはイレイザーさんのせいですよ」
「悪かった」
「奢ってください。飲み物でいいので」
「ああ」
ぽんと頭を撫でられる。そうだ、そういえば、赴任当時もヘマして凹んでいた私を慰めてくれたんだっけ。
ひっっじょーーーに分かりにくいフォローだったから、周りの先生方に教えられてやっと気付いたのだけど。
合理主義で、素っ気ないかと思えば優しくて、生徒思いで、それで……、それで……。
意識しない方がおかしい。
なんだよ、恋愛感情か分からないとか。確かめるのなんて、それこそ非合理なのに。
私がイレイザーさんのそれに付き合うなんて、そんなの、
「ますます好きになるじゃないか……」
「ん?」
「何でもないです」
セーーーーーーフ。小声でよかった。
言ってもよかったのかもしれないが、恋愛感情か分からないと聞いた今、そのまま告白してもダメな気がした。
ほら、あれだ。イレイザーさんが恋愛なのか何なのか分からないうちに付き合って「違った」と答えを出したとして。フラたらとても傷付く。特に私が。
ならばお試し交際でいいじゃないか。実験的な。仮恋人的な。フラれても「ま、仮恋人だったし」で済むわけだ。誰も傷付かない。オールオッケー。
「お受けします」
深く息を吸込み、決意が揺らがないようにまくしたてる。
「お受けしますよ、イレイザーさん。その感情が何なのか、一緒に解明しましょう」
私の本心は、分厚い衣で覆ってしまおう。
だって、傷付くのは怖いから。