変化する私たち②
「お前はもう俺のこと、『消太さん』って呼んでくれないのか?」
爆弾みたいな発言だった。
一瞬、仮眠室が静かになった。
「――え?」
そんな訊き方、まるで、
「よ、呼んでほしいんですか……?」
消太さんと呼ばれることを望んでいるみたいじゃないか。
「……」
消太さんは顎を擦りながら、そうだな、と答えた。
「ここだけの話」
「ここだけの話?」
「……結構よかった」
「けっ!? ……ほ、ほーん?」
まさかそんなことを言われるとは思わなかったな。
「てっきり呼び方を変えたこと、気付いてないのかと……」
惚れさせてみせるには、まず名前の呼び方からだと思って、ヒーロー名ではなく本名で呼ぶことにしたのだ。
特に何の反応もないから、気付いた上でスルーしているのかと思っていた。
もちろん、嫌がったらやめるつもりだったよ。
でも、結構よかったってことは、嫌がってないっぽい?
へ、へえ~? ふ~ん?
「『惚れさせてみせます』の衝撃がデカかったら、そっちに気付くのが遅れたんだ」
「それはすみませんでした」
でも……。
「学校でいきなり本名呼び出したら、勘のいい人は気付きますよ、きっと。ただならぬ関係だと」
「ただならぬ……。付き合っているだけだろ」
「仮、が付きますけどね」
消太さんは、テーブルに乗っていた茶飲みを手に取り、ひと口啜った。
「つまり、皆の前ではないなら、お前は呼んでくれるんだな?」
「ま、まあ、そのつもりです、はい」
「じゃあ。今、呼べるだろ」
「そ。そう、ですね……?」
消太さんは長い前髪からこちらをじっと見つめている。
私の心を見透かそうとしているようで、なんだか落ち着かない。
「よ、呼びます?」
無言でうなずく消太さん。
「じゃあ、はい」
私は咳払いをした。
口を開いて――口の中がカラッカラになっていた――改めて、消太さんの名前を呼んだ。
「し、しょ、しょ……しょう、た。消太さん」
消太さんは持っていた湯呑みを静かに置いた。
掌で目を覆い天井を見上げる。
そのまま銅像のように微動だにしない。
沈黙が部屋を支配する。
……ねえ、ちょっと。
あの、何この空気。堪えられない。
3分(多分)も無言って何事なんですか!?
「――ちょ、何でずっと無言なんですか!? 感想ないんですか!? せめてうんとかすんとか言ってくださいよ!?」
「うん」
「ホントにうんしか言わない!!」
やめてくださいよ。大勢の観客の前でネタ披露してスベった芸人みたいな気持ちなんですよ!
「」
「はい、何でしょう?」
消太さんはギギギっという効果音がつきそうな動作で首を戻した。そして、目の覆いを外して顎の下で手を組んだ。
「……よかった」
「よ、よかった、ですか」
「ああ、かなり」
ゆっくりとうなずく消太さん。
「これは2人きりの時の方がいいな」
「消太さん、不審な動きしてましたよね」
「不審だったか……」
ええ、かなり。
……嫌だったかな、と不安になったけれど、あの行動を見るに逆だったのだろう。
呼び方ひとつで好きになってもらえるとか甘いことは考えていないけど、効果がありそうで嬉しい。
どんな些細なことでもいい。消太さんが自信を持って「が好きだ」と思ってもらえるように、私、頑張る。
「じゃあ、皆の前では今まで通りイレイザーさん。2人きりの時は消太さんって呼ぶことにします」
「そうしてくれ。俺がこの有様だと、生徒たちに示しがつかないんでね」
よーし、本名呼び作戦は成功。継続するぞー!
「――じゃあ、そろそろ出るか。お前、残している仕事は?」
「いえ、今日は大丈夫です」
「そうか。一緒に帰るか?」
「はい! 消太さん!」
「っ、はあ……」
ふい、と目を逸らして消太さんは立ち上がった。
「校門前に集合でいいな?」
「もちろんです」
「俺は先に職員室へ戻る。あとでな、」
消太さんが部屋を出ていった。
私は呆然とその場に立ち尽くしていた。
――え?
「あ、今。今、って――」
私、消太さんに本名で呼ばれた!
私よりサラッと。さり気なく。
「……」
思わずその場に蹲る。
私が消太さんを惚れさせたいのに!
「もっと。……。もっと好きになってしまう……!」
真夏の太陽に照れされたように全身が暑くなり、指先からスライム化が始まる。“個性”が発動しているのだ。ああ、まずい。深呼吸。深呼吸。
名前呼ばれただけでこんな体たらくって……。
はあ、私、初心過ぎるって……!
恐らく消太さんも、2人きりの時に本名を呼んでくれるつもりなのだろう。
「これは……。本名を呼ぶ以外の作戦も立てなければ……!」
家に帰ったら作戦を立てよう。私はぐっと両の拳を握るのだった。
***
いつものように消太さんと駅前で別れ、帰宅した。
「ただいまー」
ひとり暮らしなので返事をしてくれる相手はいない。だけど、ついついこうして「ただいま」を言ってしまう。
はー。それにしても、今日はとてもいい日だった。
消太さんにって名前で呼ばれたからね!
さ、もっと好きになってもらえるために色々考えないと……。
その前にまずはご飯を……ん?
「あれ。スマホ鳴ってる?」
誰からだろう? 消太さんだったらいいな。
淡い期待に胸を踊らせ、テーブルに置いたスマホを手に取る。
相手は、
「あ」
相手、は……。
「もしもし?」
『さん?』
花が枯れるように気持ちが萎んでいく。
空を飛べるような心地から一転、地面に叩きつけられたような。
名前を呼んでくれる人が違うだけで、こうも気分に影響が出るものだろうか。
私にとっては、氷風呂に沈められるように冷たい響きを纏っているように聞こえるのだ。
きっと、人生で一番多く名前を呼んでくれる人なのに。
「はい。お元気ですか、お母さん」
震える声で、私は母に問いかけた。
『……相変わらずですね。オドオド、オドオド。愚図なあなたに、本当にヒーローが務まっていたのかしら?』
「……」
『教師になったと聞きましたが、そんなあなたが人様に物を教えられる立場なのかしら? 私はいつも不思議に思っているわ』
「それは――だい、大丈夫、です」
口の中が乾いている。身体が強張っている。
「お母さん、あの……。私、ちゃんとできてます。大丈夫、です」
『そうですか』
興味のなさそうな、ひと言。
『まあ、何でもいいわ。手短に用件だけ話します。あなた、来月は家に帰ってきなさい』
「何、で?」
『もう3年も帰ってきていないでしょう。ちょうどいいじゃありませんか。それに――』
「え……?」
告げられたそれは、予想外のもので。
私の未来が無理矢理決められてしまうもので。
床に穴が空いて、底のないどこかに落ちていくような気がした。