
おしまいは、あなたの隣。②
研究所のすぐ傍に落ちていたのは、紛れもなく“ねがいぼし”だった。マサルのポケモンになったとはいえ、ガラルには変わらず“ねがいぼし”が落ちてくる。
ソニアがはっとして、
「“ねがいぼし”は本気の願いを持つ人のところに落ちてくる……」
と呟いた。
「ねえ、ダンデくんの願いに呼応してきたんじゃないのかな」
「そうだぞ! きっと、アニキの“ねがいぼし”なんだぞ!」
ホップが同調し、オレの背中をぐいぐいと押す。
「いや、だが……」
「今のダンデくんが本気で叶えたい願いなんでしょ。さんに会うことが。迎えにいくことが! だって“ねがいぼし”が落ちてくるくらいなんだよ!」
ソニアがバシン! とオレの背中を叩いた。
「だったら、やろうよ。ムゲンダイナに協力してもらって、行こうよ」
「アニキ! やろうぜ!」
「だが、」
「往生際が悪いと思います、ダンデさん」
突如、空からマサルの声が降ってきた。
「ご苦労様、カイリュー」
新しく仲間にしたらしいカイリューからマサルは颯爽と降り立った。そして、オレと向かい合うようにして仁王立ちし、
「いいじゃないですか。ムゲンダイナと僕、協力します。やりましょうよ。さんを迎えに行ってあげてください」
と、告げた。
「キミ、事情も知らないのに何で」
「話は事前にホップたちから聞いてます。ダンデさんが一度断るのも予想がついていました」
「どうしてだ。逆に訊きたい。キミも、ソニアもホップも、どうして反対しない? オレはローズさんと違って個人的願いで、」
「ダンデさん!」
マサルくんがバトル前のような目つきでオレを見つめた。
「ローズさんのあれも、個人的な願いでしょ」
背後からポケモンに技を仕掛けられたような感覚だった。
そう、か。そういう考えもあるのか……?
「ローズさんの願いは『ガラルが1000年続くように』でした。確かに僕たちのためのように聞こえるけど、ある意味、あれも個人的な願いです。確かにぼくらの住む土地がずっと未来に残って平和に暮らせたらハッピーですけど。皆が皆、ローズさんと同じようなこと考えてるわけじゃなし。ひとりくらい迷惑だと思ってた奴がいたんじゃないかな」
「それに、あれが例えば『自分の会社が1000年先も続くように』だったらどうですか。『自分の家が1000年続くようにだったらどうですか。僕は、同じようなものだと思います」
願いなんて、結局のところ、誰かのためにと願っても、個人的なものに過ぎない。押しつけなのかもしれない。エゴなのかもしれない。マサルはそう語った。
「ローズさんほどの人だって願いを叶えるためにあんなことしたんです。じゃあ、いいじゃないですか。ダンデさんが我慢する必要ないです」
「あなたはまた、『チャンピオン』として自分より皆を優先させようとしてませんか? あ、今は『オーナーのダンデ』ですか。『リーグ委員長のダンデ』ですか? ともかく、今一度、自分の胸に問いかけてください。自分の願いを優先してください! あんたのエゴをぶつけてください! 僕らはそれに付き合う覚悟くらいあります」
まるで大人のような語り口に呆然としてしまった。ホップはマサルのこれに慣れているのか「久々に聞いたんだぞ、マサルのタネマシンガントーク!」とはしゃいでいる。これがマサルの通常運転なのか?
「すごいわね、マサル。わたしも学会でこれくらい口が回ればなあ……。質問が一番怖いんだから。『素人質問で恐縮ですが』とか」「ソニア。今はその話をしている場合じゃないんだぞ」「あ、ごめん」という声をバックにオレは考える。
雪のように降り積もっていたに会いたい気持ちが、堰を切ったように溢れ出す。
オレは、この半年間、知らず知らずのうちに自分の気持ちを押し殺していたのだろう。
大人だから。上に立つ者だから。
だから、もう少しだけ我慢だ。そう、言い聞かせて――。
「傍にいたいんだ」
コップから溢れた水のように。このひと言が出たら、もう、止まらなかった。
「ウールーたちが萌える緑を転がる春の景色を。トサキントが海を泳ぐ夏の景色を。ギモーやマシェードがルミナスメイズの森で戯れる秋の景色を。バリコオルが楽しげに踊る冬の景色を。……巡る季節を何回、何十回、何百回でも彼女の傍で。同じ景色を見ていたい」
オレは、オレ自身を優先していいのだろうか。
「今までガラルの未来を優先してきた。この半年間もそうだ。もう、オレ自身を優先しても、いいのか」
「いいですよ。例え世界中がダンデさんの敵になっても、ぼくはダンデさんの味方になります」
「わたしも」
「オレも」
ソニアとホップもマサルに同調する。
マサルが任せてとばかりに胸を叩いた。
「それに、大丈夫です! 絶対ムゲンダイナを暴走させません。まだ半年間だけど着実に仲良くなってきてるんですよ。ここは大船……、サント・アンヌ号に乗ったつもりで任せてください」
「だが、そうは言っても……」
やはり不安はつきまとう。ああ、オレはこんなに決断力がなかったか? バトルのときとは大違いだ!
に会いたいがムゲンダイナを暴走させるわけにはいかない。ガラルを滅茶苦茶にはしたくない。
しかし、諦めたくない。
「他の方法は」
「そんなのダンデさんがおじいさんになっちゃいます! 2人が一緒にいられる時間が減ります! ったくもう! ダンデさん!」
渋るオレに業を煮やしたマサルがつかつかとオレに歩み寄り、ちょいちょいと手招きする。屈めということか。
「どうしたんだ、急に」
言うとおりにするとマサルが、屈んで掴めようになったオレの襟首を掴んだ。
「いいから早く私の親友を迎えに行け元チャンピオン! あの子が幸せにならなきゃ死んでも死にきれないわ。決心つかないならまたケツバットでも受けてみる?」
「は――キミ、」
心臓が口から飛び出るかと思った。
その出来事を知っているのは、あの2人だけだ。
マサルは不敵に笑い、しいっと人差し指を唇に当てた。
「――って、僕の記憶にある『私』ならこう言うと思います。今はまだ皆に内緒にしておいてください。前世? の記憶思い出したのはムゲンダイナを捕まえた半年前なんです。それに、記憶があるだけで僕は僕『マサル』であることは変わりません。ええと、詳しいことはあとで話しますから」
オレは無言でうなずくしかなった。何がどうなっているかは分からないが、マサルにはズシの記憶があるらしい。
マサルは満足気にオレから離れた。
「よーし。じゃ、そういうわけで、やりましょうよ。今から」
「今から!?」
残してきた仕事が頭によぎった。が、1秒でも早くに会いたいという気持ちが勝った。
「善は急げって言葉ありますから。ダンデさんがさんを迎えにいくのは善です」
「だがまだやるとは」
「やるんです! それともバトルします? 僕が勝ったら言うこと聞いてくださいね。絶対ダンデさんに勝ちますから」
「マサル!」
「でも時間もったいないし、やっぱり今すぐムゲンダイナの力を借りましょう。ね?」
マサルは“ねがいぼし”を拾い上げオレに押し付けると、カイリューをボールから出した。
「ここからならソニアさんの家が近いかな? 街中でムゲンダイナ出すよりいいですよね。きっと騒ぎになるし。じゃ、ホップ乗って。一緒に行こう」
「やった! カイリューに乗るのは初めてなんだぞ」
「ダンデさんとソニアさんもすぐ来てくださいね!」
言うなりマサルとホップを乗せたカイリューは飛び去ってしまった。
残された大人組――オレとソニアは呆気にとられ、お互いに顔を見合わせる。
「子どもってフットワークが軽いわ……」
「マサルが特別なんじゃないか」
いや、比喩表現ではなく。
「じゃ、わたし保管している“ねがいぼし”取りに行くから待ってて」
「ソニア?」
伸びをしながら研究所へ向かうソニアを慌てて引き留める。
「キミ、反対しないのか」
「え、むしろ反対してほしいわけ?」
「そういうわけでは……」
「あはは。ダンデくんがしおらしいの、珍しいよね。しかもマサルに振り回されてさ。いつもはダンデくんがわたしたちを振り回す側なのに」
ソニアがニヤリと笑った。
「わたしたちさ、ジムチャレンジ、一緒に旅立ったでしょ? ダンデくんったら、珍しいポケモン見つけたって飛び出してはすぐ迷子になるし、目が合ったからバトルだってすぐトレーナーに勝負を挑むし、大変だったよ。今だってわたしに頼めば何でも解決すると思って異世界に行きたいって無茶振りしてきたしさ」
「……」
「そんなダンデくんが、さんのことになると慎重になって誰かに振り回されちゃって。珍しいもの見たよ。……それくらいさんのことが好きで、さんに関することは間違えたくないんだよね」
そういうダンデくんを見るの新鮮だよ、とソニアは言った。
「だからこそ、ムゲンダイナに協力してもらおう。ダンデくんの願い、叶えようよ。わたしもさんに会ってみたい。ダンデくんの方向音痴に付き合ってくれたお礼、言いたいし」
オレはそれを聞いて、覚悟を決めた。
兎にも角にも、ムゲンダイナと話してみなくては始まらない。
オレは、オレ自身を優先する。
ただし、誰も傷つけない方法で。
***
ソニアと一緒にリザードンに乗り、ソニアの家へ辿り着いた。マサルとホップがぴょんぴょんと飛び跳ね、こっちこっちと手招いている。
「ダンデさん、早く!」
マサルはすでにムゲンダイナを外に出していた。恐らく見慣れない大きなポケモンに恐れ慄いているのだろう。その辺りを駆けていた野生のワンパチやクスネがサッと草むらの奥に隠れ、ソニアの家の屋根に留まっていたココガラが慌てて飛び去っていった。
緑溢れるのどかな場所に急に体長20メートルもある伝説のポケモンが現れたら、誰だって驚くのかもしれない。
「マサル。まずは、ムゲンダイナに話を通してからだ。ムゲンダイナが嫌がったら、――協力を仰げなかったら、他の方法を考えようぜ」
「え、ここに来てそんな、」
「ポケモンを道具のように扱ってはいけない」
オレの言葉を聞いてマサルは押し黙った。
「……無理矢理では、ローズさんと同じになってしまう。ムゲンダイナの意思を聞くんだ。だが、異世界を渡る方法は諦めない。オレは、オレの願いを必ず叶える。そのときは、キミの力を借りるぜ。世界中が敵になっても味方になってくれるんだろ、チャンピオン?」
マサルは「分かりましたよ」と拗ねたように唇を尖らせた。
「確かに焦りすぎましたね。ムゲンダイナは――ポケモンは道具じゃない。僕らの大切な仲間です。……でも本当、ムゲンダイナが拒否したら、その瞬間から死ぬ気で異世界渡る方法探しますよ! さん待ってますからね!?」
そこまで怒涛の勢いで喋ってきたマサルは、ふいに静かになり、ムゲンダイナの身体をそっと撫でた。
「ムゲンダイナ。ダンデさんの話、聞いてくれる?」
ソニアがぽん、とオレの背中を押す。
マサルの傍にいたホップがオレの方を見てうなずいた。
「やあ、久しぶりだな」
旧友に挨拶でもするようにオレはムゲンダイナに近付いた。
ムゲンダイナと会うのは、異世界へ渡ったきっかけとなった、あの夜ぶりだ。
改めて観察してみるが、ムゲンダイナは不思議なポケモンだ。まるでドラゴンポケモンの骨格標本のような姿をしている。
顔に当たる部分は幼い子どもが描くチューリップのようでもあり、人間の掌のようでもあった。白く丸い部分は目、だろうか。表情は分からない。
肋骨に当たる部分には、赤く光るコアのようなものが揺らめいていた。
「元気か、ムゲンダイナ。マサルと仲良くしているか?」
鎮めるためだっとはいえ、オレはあの日、ムゲンダイナに攻撃をしている。彼(でいいのだろうか)はオレをどう思っているのだろか。嫌いになっていないだろうか。
ムゲンダイナは置物のように微動だにしない。恐らくオレを観察しているのだろう。
プレッシャーを感じる。ムゲンダイナの特性のせいだろうか。なんて、冗談を考えてしまう。
「アニキ、平気か」
あの夜、オレが倒れたことを心配してのことだろう。「もちろんだぜ」とオレは笑って答えた。ムゲンダイナにトラウマもない。
「オレはこの通り、キミを嫌ったりはしていない。キミも暴走を望んでいなかっただろう?」
だがオレは今から、ムゲンダイナにとっては酷なことを頼む。
「頼み事があるんだ。どうしても、会いたい人がいて、……彼女を迎えに行きたいんだ」
「僕からもお願い、ムゲンダイナ。きみに世界を繋げるほどの力があるのなら、ダンデさんの願いを叶えてほしい。“ねがいぼし”もたくさんある。でも……」
「キミが苦しみ暴走するのは、オレたちの本意ではない」
オレはマサルの言葉を引き継ぐ。
「キミはオレの願いを断ってもいい。無理矢理“ねがいぼし”を与えることはしない。力を貸してほしいが、オレはキミの意思を尊重する」
ムゲンダイナはオレをじっと見ていた。
胸のコアがゆらゆら、煌めいた。
「一度キミとはバトルした。ゲットしようともした。……キミはオレのことが嫌いかもしれ、ない、が……」
と、ムゲンダイナが動いた。非常に緩慢な動きでオレに近づき頬を寄せる。ワンパチが無邪気にじゃれついて、親愛を示すような……。
「――ムゲンダイナ?」
「あれ?」
スマホロトムの着信音とは違う音がした。オレたちはきょろきょろと辺りを見回していると、ソニアが白衣のポケットから機械を取り出した。
「パワースポット探しマシーンが反応してる!」
「確か、ガラル粒子が多いところに反応するという……? んん、どうしたんだキミ」
突然ムゲンダイナがぐい、とオレを引っ張った。彼は何を訴えているんだ?
「――あ! ダンデさん、ムゲンダイナは“ねがいぼし”が欲しいんじゃない?」
さっき拾ったやつ、とマサルが言った。
「ということは! ムゲンダイナはアニキに協力してくれるのか!?」
ホップに反応してムゲンダイナが大きく鳴いた。その通りだ、とでも言うように。
「ありがとう、ムゲンダイナ」
マサルくんのダイマックスバンドが輝く。
「本当……に、ありがとう……」
マサルの頬に涙が伝った。だが、すぐにそれを拭って、右腕をムゲンダイナへ掲げる。
「多分、君の力が発揮できるのはダイマックスしたときだよね」
ムゲンダイナが再び鳴いた。今度は空に向かって。
「ダンデさん、“ねがいぼし”を」
「分かった」
大丈夫だ、という確信があった。
ムゲンダイナが欲したのは、“ねがいぼし”ひとつだけ。
に会いたい。
その願いで落ちてきた“ねがいぼし”。
たったひとつだけを、受け取った。
オレの本気を。心からの願いを。
ムゲンダイナは、受け取ってくれたのだ。
「もう一度、あの世界に」
マサルの手によって姿を変えたムゲンダイナへ、オレは手を伸ばした。
***
【全国図鑑NO.890】
「ムゲンダイナ」
性別:不明
分類:キョダイポケモン
タイプ:どく・ドラゴン
高さ:20.0m
重さ:950.0kg
特性:プレッシャー
【説明】
胸のコアがガラル地方の大地から湧き出すエネルギーを吸収して活動している。
2万年前に落ちた隕石の中にいた。ダイマックスの謎に関係しているらしい。
【ムゲンダイマックス】
巨大化したコアから無限のパワーが放出されているため、まわりの時空を歪めている。
***
その日は、もう、散々だった。ひと言で言えば「ツイてない」。朝のニュースの占いなら最下位ってところだろう。
まず、寝坊した。30分くらい。スマホの充電が上手くいかず、電池がなくなっていたのだ!
大慌てで着替えていたらストッキングが伝線した上にシャツのボタンが取れた。舌打ちして違う服を取り出したところでだいぶ時間をロスしている。
それでもクローバーの髪飾りは忘れずに。戸締りをしっかり確認して家を飛び出した。
ところが、息も切れ切れに乗った電車は反対方向。気付いたのは2駅過ぎたところで。半泣きになりながら引き返した。生きた心地がしなかった。
会社にはなんとか間に合った。だけど、新人の子が仕事で大きなミスをしていたことが発覚。それのフォローに追われ、休憩に行きそびれた。
なんとかデータを修正して先方にお詫びの電話を入れたのが午後3時。「さん、本当にすみません」と捕食されそうなウサギのように震える新人ちゃんを慰めながら軽くご飯を食べて、また仕事。
途中、 部長に呼ばれて今後の方針を話し合い、ますます落ち込んだ新人を慰めつつ残りの仕事をやっつけ――残業を2時間ほどして、私は退社した。
まあ、朝からツイてないわりには、早めに退社できたしよかったんじゃないだろうか。
夕飯を作る気力もなく、駅前のコンビニに寄った。……ここ最近、自炊サボってるな。ちょっと生活見直さないと。
「……あ、可愛い」
スイーツコーナーにパステルカラーのミニケーキや、星をモチーフにしたミニパフェや和菓子が置いてあった。季節限定……?
……そっか。今日、七夕か。
天の川を挟んで離れ離れになってしまった織姫と彦星が、1年に1回会うことを許された日。
最近忙しくてすっかり忘れてたな。
私はデザートコーナーにあったミニケーキを手に取ろうとして――大いに悩む。こういうイベントを楽しみたいけど、それはそれで無駄遣いでは?
しばらく迷っていたけれど、結局春雨スープと飲み物だけ買って帰宅した。
***
「んー。どう見ても曇り空」
ベランダに出て、夜空を眺める。厚い雲に覆われて何も見えない。
「でもここ数年、七夕の日に晴れてた記憶、ないかも」
とはいえ、雲の上は晴天だろう。天の川はくっきり見えているはずだ。織姫と彦星はカササギの橋を渡って、1年ぶりの逢瀬を楽しんでいるのかもしれない。
そういえば、誰かが言ってたな。七夕の日の天気がパッとしないのは、2人が恥ずかしがり屋だからではないか、と。逢瀬を見られたくないからでは、と。ロマンチックだな、なんて思ったりもする。
「……会いたいな」
ぽろり、と零れる。
「私も、会いたい」
2年前。
待つと言って、私は見送った。
覚悟して、見送った。
おばあちゃんになっても待ってる。
絶対来てくれると信じてるから。
何度挫けそうになっても、私はひたすら暗い気持ちを押し止めて、前を向いた。
写真を見て。バレッタを手に取って。あの日を思い出す。
会えない時間が、一緒にいた時間より長くなってしまったけど。
気持ちは変わらない。愛は変わらない。
傍にいたい。
共に人生を歩んでいきたい。
「……あーあ。でも、さすがに今日みたいな日は弱っちゃうよ。本当、今日はツイてなかった! 明日に期待!」
気持ち切り替え、と頬を叩く。真似をしてみたら案外よかったので、気合い入れの儀式になっている。
ベランダから部屋に戻ったら、髪からするりと何かが落ちた。
カンっ、と嫌な音を立てて床に転がる。
「やだ、ちょっと待って……!」
サアっと血の気が引いた。
貰った髪飾りが落ちたんだ。
慌てて拾い上げ留め具を確認する。
――壊れてる。
「やだ。何で、……やだ……」
ほぼ毎日使っているんだから、壊れる可能性も高くなる。当たり前だ。
だけど、これがない日は落ち着かなくて。付けない日もお守りみたいにしていて。
――傍にいてくれてるような、そんな気がして。
だから、どんなに辛いことがあっても堪えてきたのに。
これがあるから、繋がりがあるような気がしていたのに。
「やめてよ……、もう、私から何も取らないでよ……」
駄々っ子みたいに「やだやだ」を繰り返して。涙を飲んで。床に蹲る。
会いたい。
どうか、ひと目でもいいから。
願いが叶うのならば、どうか、どうか。
「会いたいよ――」
私はいつも、願ってばかりだ。
でも、願うしか知らないから。
今日も私は、何かに願う。誰かに願う。
「」
幻聴かと思った。
会いたい気持ちが強すぎて生まれてしまった、私には都合のいい、幻聴。
部屋に赤い光が満ちている。
2年前と同じ、あの光。
「こっちを向いてくれないか」
太陽の光を溶かしこんだような、明るい声。春の穏やかさを込めた、優しい声。
「……やだ」
心臓が痛いくらい鳴っている。
滲んできた涙を拭って、私は身体を起こす。
「どうして?」
「き、消えちゃう気がして……、だってこれ、私の都合のいい妄想でしょ? ――そう、夢なんだよ! 疲れすぎて、きっと私、」
「夢じゃない」
ふわり、と後ろから抱きしめられる。
私の知らない香りがした。ああ、でもこれが、本来の彼の香りなのだ。
「――ユニフォームじゃないんだ」
「ああ。今は、バトルタワーのオーナーになったんだ」
「知ってる。……知ってるよ」
「チャンピオンじゃなくなった」
「うん」
「キミを迎えに行くのが遅くなってしまった。やらなければならないことが、たくさんあって」
「うん」
「ここに来るのにも、たくさんの人とポケモンに協力してもらった。あー。……オレは、ほぼ何もしてないに等しいんだが……」
「うん、うん……!」
涙声で相槌を打つ羽目になる。彼のことになると泣いてばかりだ。
「」
「うん」
「話したいことがたくさんあるんだ。ありすぎて困ってしまうくらいだ」
「私も、ある。たくさん、ある……、待ってた。待ってたの……2年くらい、ずっと……」
「2年……? ――そう、か。時の流れがあっちとこっちでは違って……。すまなかった。キミを随分待たせてしまった」
、とまた名前を呼ばれる。
愛しい人の口から紡がれる。
「キミに話したいことは山ほどあるが、ああ、うん。まずは、これだ」
回された腕に力が籠った。
「――オレと一緒に、生きてくれないか」
返事は決まっている。あの日からずっと決まっている。
「もちろんだよ。同じ時間を、同じ景色を、あなたの隣で」
私は振り向いて彼の胸に飛び込み、
「ダンデ!」
愛しい人の名前を呼んだ。