
今はおやすみ、チャンピオン。①
外出から何日か経ったある朝のこと。
「おはよう、ダンデ」
「……」
「ダンデ?」
「あ。……ああ、おはよう、」
ダンデはどこか上の空で、ちょっと様子がおかしかった。
その証拠に……。
「……っ、。指を切った」
「えっ!? ちょっと待って。絆創膏あったかな」
朝食作り中に指を切ったり、
「ダンデ。それフォーク」
「……間違えた」
味噌汁をフォークで飲もうとしたり、
「、すまない。皿を割った」
「わ。大丈夫? 素手で触らないで」
皿洗いで皿を割ったり、いつもやらやないようなミスを連発した。
「今日どうしたの、ダンデ」
私は会社へ行く準備をしながら訊ねた。ダンデはソファに座っておでこを押さえている。
「……暑い」
「うん?」
いや、今日は寒いよ。天気予報で寒波がどうのとか言ってた。
「起きた時から少し頭がボーッとしている」
嫌な予感がした。
「……ちょっとごめんね」
私はダンデのおでこに触れる。
「うわあっつ!」
私はすぐに手を離した。
熱が出てる! これ風邪じゃないか!
二次元のキャラクターでも風邪ひくんだ!?
……待って。
私、今、何て思った?
二次元のキャラクターでも風邪ひくんだ?
何、考えてんの。信じられない。
自分に腹が立った。ダンデと今まで暮らしてきて、私は彼の何を見ていたんだ?
愕然とする私をよそに、ダンデは妙にとろんとした顔で私の手を眺めている。
「の手、冷たくて気持ちがよかった。そのまま当てていてくれ……」
私は頭を横に振る。私の気持ちの整理はあとで。今はダンデのことに集中しろ!
「ちょ、ダンデ。とりあえず横になって! ソファをベッドに戻して……はい。寝て!」
「しかしだな」
「しかしだな、じゃないのよ! 寝ろ寝ろ! 私、体温計持ってくる。もうスウェットでも何でも着て寝ろ!」
ダンデが「んー」と唸ってその場で着替えようとしたので、慌てて後ろを向いた。
あかんあかんあかん! 私の中の似非関西人が似非関西弁を喋る。腹筋が割れてるやないか! 逞しい兄ちゃんやでホンマ!
……違うこのツッコミじゃないでしょ!
私は大急ぎで寝室に駆け込んだ。ダメだ。ダンデが私の存在を忘れてその場で着替えるってことは、色々なことに頭が回ってないぞ。落ち着いてくれ、私。たかが上半身裸だぞ。プールや海行ったらどうすんだよ。狼狽えすぎだろ。はい、異性耐性ー!
なんとか心を落ち着け体温計を手にリビングへ戻れば、ダンデがパンツ一枚で突っ立っていた。
わあああぁぁぁあ!!
「着替えてよー!!」
「どれに?」
「それ」
スウェットを顎でしゃくるけど、ダンデは幼い子どものように首を傾げるだけだった。
「着せてくれ」
「何でや!」
ダンデ、熱でポンコツになってしまった……!
「おっ、……ま、なん……はぁぁぁ……」
奇声を発する私を許してほしい。彫像みたいで綺麗な身体なんだよ! 直視できない!
「自分で履いてー! ほら、頑張れ頑張れ!」
私はどうにかダンデを誘導して着替えてもらうことに成功した。体温計を確認したら、38という数字が見えた。とりあえず横になってくれ。どうしよう、何か買ってこなきゃ。このまま放っておけない。
「あ、会社……」
もう家を出る時間だ。
でも……。
私の脳内に、おばあちゃんの姿がフラッシュバックした。
……ダンデが死んだら、どうしよう……。
「。オレのことは構わないからキミは会社へ」
「いや、でも……」
オロオロする私を安心させるためなのか、ダンデはいつもより力のない笑顔でこんなことを言った。
「大丈夫。オレはチャンピオンだから」
……は?
…………は?
「はあ?」
思ったより冷たい声が出てしまい内心驚く。だけど、止まらなかった。
「はあああああ? なぁに言ってんだ、あんたは!」
カチンと来て強めにダンデの肩を叩いてしまった。病人相手なのに。ごめん。許せ。
「今はチャンピオンとか関係ないでしょ! 何を言ってんのよあんたはもう! ちょっと私、一旦外に出るから。絶対動かないで。寝てて!」
「わ、分かった……んだぜ……」
私の勢いに気圧されてなのか風邪で弱っているせいなのか、ダンデは素直にうなずいてくれた。
私は会社に連絡を入れながら、近くのコンビニへ駆け込む。この時間、近所のドラッグストアはまだ開いてないから。
「まったくもう!」
このイライラはダンデが体調を崩したから、ではない。
チャンピオンだからという理由をつけるのが気に入らないのだ。
病人相手にイライラするのはお門違いだよ。それは分かるよ。
「あんたはチャンピオン以前にただの人間でしょうが!」
そこでハッとする。
そうだよ、ダンデも人間なんだよ。
今、ここで、生きてる人なんだよ。
「――ああ! まったくもう!」
二度目のそれは、自分自身に対しての怒りだ。
マフラーを首にしっかり巻き付け、私は寒空の下を進んで行った。
***
身体が熱い。鍋に放り込まれて茹でられているのではないか。そう錯覚するほどに熱い。
風邪をひくなんて、何年振りだろうか。
ポケットの中、リザードンの入っているハイパーボールが揺れたのが分かった。心配しているんだな。
「大丈夫、オマエのせいじゃない。オマエは止めようとしたじゃないか」
風邪をひいたのは、ここ最近の深夜の散歩――もとい、リザードンとの夜間飛行が原因だろう。厚着をしていたんだが、やはり寒空を飛び回っていたら風邪をひくのも当然か。に内緒にしていた罰が当たったんだろう。
ずっとボールの中で自由にさせてやることもできないから。そんな言い訳をして夜の散歩に出ていたが、本当はオレが外に出たかっただけだ。
思えば、この世界に来てからずっと……。オレは、気を張っていたのかもしれない。
いくらが親切でも、同居の解消を言い渡される未来があるかもしれない、という不安があった。
シンジュクへ出かけた際、思い知ったんだ。知り合いのいないこの世界で生きていくことは、命綱なしに高所から飛び降りる行為に等しい、と。
もちろん今は、そんなことは思っていない。がオレを見捨てるなんてことはない。共に暮らすようになって一ヶ月弱くらいだが、彼女の人となりは理解しているつもりだ。
ここに来た当初は、子どもに世話になるなんてとか、彼女を失望させてはいけないとか、オレは常に緊張状態だったのだろう。最近になって彼女が実はオレと大して歳が変わらないということが分かって――多分少し、緩んだのだろう、色々。
そして、今度は女性に世話になっているのかと考えることが多くなって、むしゃくしゃしてしまったんだ。それで、ストレス発散のためにリザードンと毎夜飛び回っていたんだ。
「……自業自得だ」
、怒っていたな。どうしてだろうか。ちゃんと仕事に行っただろうか。初めて出会ったあの日、会社に遅刻しそうになってあんなに慌てていたんだ。彼女にとって遅刻は急所なのだろう。オレのせいで上司に怒られていなければいいんだが。
オレは、大丈夫だ。
寝ていればすぐに治るから。
だから、どうか……。
オレのことは気にしないでくれ……。