
今はおやすみ、チャンピオン。②
様々な記憶が、浮かんで消える。
まるで泡のように。
――チャンピオンには嫌いな食べ物はありますか。ボクはニンジンが嫌いです。
――嫌いな食べ物はないんだぜ! キミも何でも食べて大きくなるといい。
頭の片隅にちらついた食べ物の影を、オレは振り払う。チャンピオンに嫌いな食べ物はない。そういうことになっている。
――ダンデ。オマエ、この間の雑誌のインタビューでこれが好きって言ってたよな。奢ってやろうか?
――ああ、いや。実は……。
――オッケー。なるほどな? オマエがこれ知ってるの、おかしいって思ってたんだ。これ、スポンサーが出資してるやつだからだろ?
――キバナ、鋭いな。
――チャンピオンのお墨付きなら売れるだろうよ。でもよ、ダンデ。じゃあオマエ、本当は何が好きなんだ?
――ん? 何だったかな……?
忘れたわけじゃない。だけど、すぐに答えられなかった。どうしてだろうな? チャンピオンのダンデが好きな物は、すぐに答えられるのに。
――もうジムチャレンジのシーズンか……。
――ああ。今年は誰がオレのところまで勝ち上がってくるのか楽しみだ!
――例えばなんだけどさ。ダンデくんはチャンピオンじゃなくなったら、何かしたいことないの。
――どうしたんだ、急に。
――んー。なんとなく? まあ、ダンデくんが負けるところは想像つかないんだけど、新チャンピオン誕生の可能性はあるじゃない?
――そう、だな……。何だろう。
――美味しいもの食べたいとか、新しい服買いたいとか、ないの?
――それはソニアの願望だろ……?
未だに分からない。そうだな、何がしたいだろう? 不思議なことに、チャンピオンではないオレが想像できなかったんだ。
どうして、今になってこんなことを思い出すんだろう。
身体が弱っているから、か?
――ダンデ。ほら、これ好きだったでしょう?
風邪をひいた日に母さんが買ってきれくれたゼリーが好きだった。普段は何の感慨もなく食べていたものが、どうして身体が弱っている時は、世界で1番のご馳走のように美味く感じるのだろうか?
大人になった今は丈夫になった。何より体調管理には徹底して気を付けていたから、自分の中にこんな思い出があったことを忘れていた。
どうして忘れていたんだろう。
ああ、もう一度食べたいな……。
額に何か載せられた。熱が和らいでいく。気持ちがいい。
「ダンデ、ダンデ」
オレを呼ぶ、優しい声がする。
「ダンデ。大丈夫? ダンデ?」
瞼を押し上げる。
ああ、
「……」
ソファの上に座り直す。
が心配そうにオレを見つめている。
「色々買ってきたの。水分取ろうか。それから着替えて病院行こう?」
「んん……、キミ会社は?」
「はぁ……」
彼女は深い溜め息を吐き出す。
「休んだ。体調崩してる人を無視して出勤できるほど、私は心が鬼じゃないんだわ」
「すまなかった。オレのせいで、」
「ダンデのせいじゃない」
が力いっぱい否定した。
「もう一度言う。あなたのせいじゃない」
「……オレはキミに迷惑ばかりかけている」
「異世界に来たんだよ。仕方ないじゃない。誰かに頼るしかない」
それは、そうなんだが。
「チャンピオンとして、不甲斐ない」
「ダンデ」
は膨れっ面になっていた。
「異世界に来てまでチャンピオンである必要、ないよ」
「……」
「ごめん。誤解しないでほしいんだけど、あなたを目にしてさ『チャンピオンのダンデ』って素直に認識する人、なかなかいないと思うのよ。この間のうちの同僚、見たでしょ? キャラクターとしてあなたを知ってる人はいる。でも、あくまで皆、フィクションだと思っている」
確かにそうだ。この間の外出での同僚に出会ったが、酔っていたことやが誤魔化したことを差し引いても、オレを本気で「本物のダンデ」とは認識していなかったように思う。
それに、街の人間は誰もオレを「ダンデ」と認識していなかった。
ただの、どこにでもいる、普通の人だ。
「つまりさ、ここでは『チャンピオンのダンデ』として振る舞わなくていいってこと」
は微かに笑った。
「今はさ、チャンピオンはお休みしなよ」
「おや、すみ?」
どういうことなのか。鈍った頭では考えられない。それを見越してか、彼女は「ごめん。回復してからこの話しようか。ほら、とりあえず飲んで」と買い物袋から青いラベルのペットボトルを差し出した。
一口飲んでみる。甘いような、少し酸味があるような。でももっと飲みたくなる味だ。身体が水分を欲していたようで、すぐに半分ほどなくなってしまった。
「汗いっぱいかいてるね……。冷えたらダメだよね。んー、とりあえずタオルで拭くしかないか。きっとこれ、ダンデは無理だな…………私が拭くのかぁ……。ダンデ、服脱げる?」
オレはこくりとうなずいた。上を脱ごうとしたが、頭が引っかかってなかなか脱げない。
「……何でだろうか」
「ごめん。熱で色々ダメになってんね。やっぱ私が拭くのが正解。はーいバンザーイ」
言われた通り腕を上げる。が服を脱がせてくれた。
「汗拭くからね。じっとしてて」
タオルを手に持ったが、丁寧に胸や肩、首を拭いてくれた。
「力加減、大丈夫?」
「大丈夫だぜ……」
ベタベタした不快感が薄れていく。
時折、の小さな呻き声が聞こえてくる。ほぼ密着していると言ってもいい。小柄だな、とぼんやりした頭で思う。
彼女からはいつもいい香りがする。オレも彼女と同じボディソープやシャンプーなどを使わせてもらっているから同じ香りになるはずなんだが、どこか違う気がする。性別の違いか? 異世界の住人だからか? 不思議だな。
「」
「うん、どうした?」
彼女はさっきからオレの顔を見ない。それもそうか。身体を一生懸命拭いてくれているのだから。
「ありがとう」
「ん?」
小さくて聞き取れなかったらしい。オレの声は掠れていたが、きちんと言いたい。
彼女の耳元に唇を寄せて、オレははっきりと言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
瞬間、はエースバーンも真っ青な【とびはねる】を見せてくれた。
彼女はオレから素早く距離を取った。その際足をテーブルの角に引っ掛けていた。ガンッといい音がしたが、痛くないのだろうか。
「びっっっくりした!! えっ!? 声が、はぁ? よすぎない!? 何、私を殺す気なの?」
「どうした」
「どうした」
彼女の顔はカジッチュのように真っ赤だった。
「キミ、まさかオレの風邪がうつったんじゃないか?」
「違うわ! いやあの……本当、こわ……こわぁ……。くそ……、背中拭くから後ろ向け」
後半、は荒っぽい口調になっていた。