
今はおやすみ、チャンピオン。③
オレはが呼んだタクシーに乗り込み、病院を目指していた。
車に揺られている間、は難しい顔をしてスマホを操作していた。時折「保険証――だよねえ……10割負担……、うん」と聞こえてくる。
「」
「ああ、どうしたの?」
がこちらを見る。その微笑みは優しさに満ち溢れていた。
オレは、訊ねずにはいられなかった。
「……キミはどうしてここまでしてくれるんだ」
「どうしてって……」
「オレはキミに何も返せない。どうして助けてくれるんだ」
オレは彼女のもとに突然現れた。成り行きで仕方なかったとはいえ、彼女は共に暮らすことを許してくれた。
「人を助けるのに理由っている? あ、ごめん今のなし。偽善者っぽいな。ちょっと待って考えてるから」
はしばらく宙を見つめていたが、病院に着くまで何も答えてくれなかった。
タクシーの料金を支払い運転手に何かを伝えると、はオレと手を繋いだ。病院の入り口までなら迷うこともないのに。そう言いかけたが、やめた。
彼女の手はひんやりとしていた。
「……今朝、思ったんだ。死んじゃったらどうしようって」
「……」
何のことか一瞬分からなかったが、すぐに気付く。さっきの話の続きだ。
「この間死んだ、私のおばあちゃん。死因は肺炎だったんだ。最初はね、風邪って診断されたの。でも、あまりにも長引くから今度は違う病院で診てもらったら――肺炎だったの。電話した時に咳き込んでいたから、早めにもう一度行ってきなよって言ったんだ。それでもおばあちゃんは『大丈夫だから気にしないで』って笑って、いつも通り話を終えて。そしたら……、次の日病院から連絡が来て……」
そこからあっという間に亡くなってしまったらしい。病院に行くのが遅かったのだ。
彼女のおばあさんは歳の割には随分しっかりした人だったそうだが、昔から病院が嫌いで「寝ていれば治る」が持論だったらしい。
「私、おばあちゃんのところへすぐ行けばよかった。無理にでも病院に連れて行けばよかった。仕事、休めばよかった。後悔しても、もう遅かった。死んだ人は生き返らない。永遠なんてない。いつまでも大切な人が隣にいるとは限らない」
だから、とは振り向いてオレの手を強く握った。
「ダンデがそうなったら悲しいと思ったの。……つまり、私がこうして世話を焼くのは自己満足なの。おばあちゃんを助けられなかった後悔から来る、人助けみたいなものよ」
は夜色の瞳をオレに向けて、真摯にそう訴えた。
彼女の瞳の色は、この国ではよくある色らしい。だが今、その瞳には涙の膜が張ってあり、まるで星空が現れたかのように光っている。
彼女はオレのためにこうして心配して泣いてくれるのか。
不意打ちを食らった気分だった。
「会って間もないオレにそんなことを言ってくれるのか?」
「それはそうでしょ……。一緒に暮らしてる仲じゃないの」
「キミは、その――随分とお人好しだな」
「そう? でもさ、結局自分が後悔したくないから、ダンデを病院に連れてきてるだけだよ。優しいとは、ちょっと違うんじゃない?」
オレはそれ以上何も言えなくなってしまった。
例えばの話。オレがだったなら、どうしていたんだろうか。
彼女はひとりで生きている。家族はいない。天涯孤独だ。仕事もそう休んでいられないだろうに。
生活は? これからのことは? 大の男を住まわせてあげられるだけの余裕が、あるのか?
まだ出会って一ヶ月くらいしか経ってない人間のために、涙を流せるのか。
分からない。頭がぼんやりする。体調が万全だったら、分かるだろうか。
キミが優しい理由も。
キミがチャンピオンを休めという理由も。
「……すごいさ、キミは。本当に」
***
診察でとある事実が発覚した。なんとダンデは、連日、長時間も外に出ていたらしい。
私はベランダに出ていたダンデの背中を思い出す。もしかして私が知らなかっただけで、ダンデは毎晩ああして空を眺めていたのだろうか。ありえるなぁ……。
私があの時勇気を出してダンデに話しかけていたら、長時間外に出ることもなかったのかもしれない。……なんて、今更後悔しても遅いのだけど。
診察を終えて薬を貰って(保険証がないので今回は十割負担になる。ちょっとお財布にダメージだが仕方ない)、再びタクシーに乗り込んだ。ダンデは相変わらず熱でボーッとしている。そうだ、スーパーに寄ってもらおう。
運転手さんにそれを伝え、私はダンデに「欲しい物はないの?」と訊ねる。
「何か食べたい物とか、ある?」
「いや……」
輝く太陽のような瞳が、弱々しく揺れている。
「――ゼリー」
「ゼリー?」
ダンデはこくりとうなずいた。
「ゼリーが、食べたい。昔食べたんだ。あれは何だったかな……、オレンのみのような……」
「オレン?」
何だろう、それ。向こうの世界のやつ? スマホで調べたら似たようなの出るかな……。
「分かった。買ってくる。待ってて」
私はタクシーから急いで降りた。店内に入り、ゼリーが置いてある売場へ向かう。
ダンデが願望を素直に口にするのは初めてかもしれない。嬉しい、かも。弱っている時に何を思ってるの、という感じだけど。
「ゼリーか。何がいいんだっけ?」
オレンのみって何? スマホで調べてみる。青いな、これ。へぇ、ポケモンに持たせると使うの? 体力回復? へぇ……? 人間も食べていいやつなの? 元ネタはミカンなの? ……ミカンゼリーでいいのだろうか。
私は陳列棚のミカンゼリーをカゴに入れた。ダンデ、こういうのあっちで食べたのかな? 思い出の味? そういう設定? ああ、設定って……。こう考える時点で最低。
――二次元のキャラクターでも風邪ひくんだ。
今朝、頭に浮かんだこれ。
私、最低だ。
ダンデと暮らしてきて、ダンデの何を見てきたのだろう。距離がある? 縮めたい? 一緒に外出?
「本当、バカみたい」
距離があるのは、私の方。
画面1枚分の、自分自身でも気付かないくらいの薄い壁で、自分からダンデと距離を置いていたのではないだろうか?
異世界からトリップしてきたキャラクター。二次創作で見たやつだと困惑していたにも関わらず、実はちょっとワクワクしていたのではないだろうか?
非日常に心を踊らせ、家族がいない寂しさを埋めてくれるならなんでもいいとか、そう思っていたのではないだろうか?
ダンデのことを知りたい。その気持ちは変わらない。
でもそれは、二次元のキャラクターとして見ていたからではないか?
そんな色眼鏡で見ていた私が、この先ダンデと暮らしていける? 本気で帰る手段、見つけてあげられる?
――おばあちゃんみたいに、もしもいきなり死んじゃったらどうしよう……。
そう思った時に、私は改めてダンデが「生きた人間」なのだと認識した。
だから、ダンデが「オレはチャンピオンだから」なんて言って笑うのが、余計に許せない。
「うん、人間なんだから……」
独り言にしては大きすぎるそれに、隣にいた買い物客がぎょっとして私から大きく距離を取った。それに気付いて私は曖昧に笑い、素早くレジへ向かった。
ダンデが待ってる。