嫌いになりたい④


  

 最近の様子がおかしい。

 本人は隠しているつもりかもしれないがバレバレだ。オレを見つめては浮かない顔をしているからだ。……オレが何かしただろうか。日頃の行いを振り返ってみるが、まったく身に覚えがない。

 彼女の憂いの原因は一体何なのだろう。

 知らないふりはできない。気になるのは当たり前だ。のことが好きだからな。

 さて、どうやって話を切り出そうか、との髪を梳きながら考える。

「髪型の希望はあるか」
「特にはな……あ。あれがいい。ハーフアップ」
「オーケー。任せてくれ」

 はリビングのカーペットへ、オレはソファへ座って髪のセットを始める。

 彼女に想いを伝えて以来、オレは彼女の髪をセットしている。プレゼントしたバレッタを使ってほしいという気持ちもあって「髪型はオレが決めたい。というよりはセットしたい」と申し出たんだ。

 は渋っていたが、「キミに触れたい」と正直に話したお陰なのか、最終的には首を縦に振ってくれた。頬はチェリンボの色に染まっていた。

 そういうことがあって、オレは今日も彼女の髪をセットする。

 の髪はオレの髪と違ってさらさらしていて、触り心地がいい。もっと触っていたいと思うが、ここは我慢だ。会社に遅刻させるわけにもいかない。

 そうだな……。改まって訊ねると余計に話してくれないだろうから、今、何気なくを装って訊いてみようか。

「なあ、会社、忙しいのか」
「んーん。そんなことないよ。どうして?」
「少し、キミの元気がないような気がして」

 一瞬、間があったが、

「――そんなことないよ。元気だよ。普通普通」

 なんて返事が返ってくる。いやに平坦な声だった。

 はオレを背にして座っているので、どんな顔をしているか分からない。

 右側の髪を編み込みながら、オレは再びに問いかける。

「それならいいが、会社で嫌なことがあったのか? オレでいいならいつでも話を聞くぜ」

 オレは会社勤めをしたことがないから的確なアドバイスなんてできやしないが。聞き役くらいは務まる。それに胸の内を明かすことでスッキリすることもあるからな。

「んー。ありがとう。でも本当に大丈夫だよ」

 あまりしつこいと嫌われてしまうだろうか。オレはとりあえず「そうか。でも何かあったら相談だぜ」と引き下がることにした。

「よしできた」

 パチン、とバレッタを留めた。

 の髪に、オレの選んだバレッタがある。
 四葉のクローバー。幸運の印。

 うん、いいな。こういうの。

 は鏡を出して出来上がりを確認する。

「器用だね」

 鏡越しに視線が合ったのでにっこりと笑ってみせた。

「すごく可愛いぜ、

 彼女は振り返ってこちらを睨んだ。ああ、照れてるんだな。表情ですぐに分かるぜ。

「またそういうこと言って……」
「本当のことを言って悪いことでもあるか?」
「……」

 が両手で顔を覆った。

「てんねんこあい……」

 そう呟いては手を離す。

 ――どうしてなんだ、

 どうしてそんな、辛そうなんだ。

 ここ最近のキミは曇り空を纏っている。

 今日、帰ってきたら、多少強引でもその暗い表情の訳を聞き出してみよう。


***


 を送り出したら、まずは洗濯だ。洗濯機を回している間に皿洗いや掃除を済ませる。

 今日は雨が降るらしい。洗濯物は部屋干しだな。

 そういえば、は傘を持って行っただろうか。帰りに降り出さなければいいが……。いざとなったら駅まで迎えに行けばいいか。

 家事が終わったら、次の動画のネタを考える時間だ。

 オレはリザードンをボールから出し、リビングに敷かれたカーペットの上に座った。胡坐をかくと、左膝にリザードンが顎を乗せてきたので、よしよしと頭を撫でてやる。「くるる……」と気持ちよさそうな声が聞こえてきた。

 オレはスマホを操作して、寄せられたメッセージを確認していく。

 視聴者から「弱点が多いけれど草タイプ統一パで勝ちたいのでアドバイスお願いします」といったメッセージがきていたので、パーティー構成を考えてみよう。こういうのは、くさタイプジムリーダーのヤローが得意とするものだ。彼の意見も聞きたいところだが……。オレの持つ知識で最善のパーティーを組んでみようか。

「おっと。そういえば、何故かポケモンのゲームだけはできないんだよな」

 switchを触ろうとした手を引っ込める。あとでに頼まなければ。

 動画のネタをあらかた出したら、動画の録画や編集をしてくれるズシへ連絡だ。就業中だから返事は昼頃だろう。

 その間、オレはSNSのアカウントにログインし、DM等をチェックしていく。新たにポケモン目撃情報が寄せられていないか、あるとしたらそれは信憑性があるものかを確認していくのだ。

 オレがトリップしてきた原因は分からないが、以前候補に挙げたポケモンの痕跡のようなものがあるのなら、現地に赴くべきだ。

 オレが方向音痴でなければ今すぐにでもリザードンと飛び出していくのだが。
 この世界にはポケモンがいないから、すぐに注目されて面倒なことになってしまう。

「早く帰らないといけないな、リザードン」

 数日前、ズシから謎のバグでゲームが進められないと教えてもらった。

 ムゲンダイナから先のストーリーが始まらない。
 オレと主人公のバトル――決勝戦ができないバグ。

 現実のオレもそうだ。

 ムゲンダイナの騒動が終わった直後のトリップ。
 異世界で帰る手段を探している。
 決勝戦はまだできない。

もズシも濁していたが、きっとバグとオレがここいにいるのは関係があるんだろうな」

 オレはリザードンに話しかける。

 今までエンディングを迎えていたゲームがいきなりバグによって進行不能になるのはおかしい。
 オレがこちらの世界にトリップしてきた時点でバグが発生していなければおかしい。

「オレのいた世界とこっちの世界のゲームは違うさ。だが、と想いが通じ合ったバレンタインを境にバグが発生したとなると、な……。無関係とは言えないんだぜ」

 オレは目を瞑る。
 根拠はない。だが、オレの勘が告げている。

「オレが帰らないとゲームのバグは直らないんじゃないだろうか」

 ゲームを通じてこの世界の人たちはポケモンとふれあっている。
 その機会を奪うのは本意ではない。

 あちらの世界でもきっと皆、オレを心配している。
 行方不明になっているとか、そんなことになっていないだろうか?

 ローズ委員長のこともある。処遇がどうなったのか、ポケモンリーグは混乱していないのか。考えないようにしてきたことが、今になって「不安」という形で【だくりゅう】のように押し寄せてくる。

「そして、ガラルの皆を安心させたい。リザードン以外のオレのポケモンたちにも無事を伝えたい。母さんやホップに会いたい。マサルくんとバトルをしたい」

 そして、

「――と共に生きたい」

 オレは、どうしても帰らなければならない。
 この世界で生きることを考えなかったわけではない。

 ただ、オレの世界を広げてくれたポケモンがいない世界で生きるのは、難しい。みずタイプポケモンに砂漠で生きろというくらいに。

「彼女に無理を強いてしまっただろうか。オレはあのとき簡単に言ってしまったが、未知の世界についてくる覚悟は、そう易々とできるものじゃないよな」

 ……もしかしたら、の元気がないのはこれのせいかもしれない。

「でも、オレはと離れるのは嫌だ。どうしてお互いの気持ちが同じなのに離れ離れにならないといけないんだ」

 帰る方法が見つかったら、ともう一度話し合いたい。オレについてきてほしい。

「元気がない原因を訊くのは、今日はやめておくか。も悩んでいるんだろう」
「ばぎゅあ!」

 リザードンが励ますように鳴いた。

「サンキュー、リザードン。さあ、目撃情報の確認再開だ――ん、これは……?」

 とあるメッセージが目に飛び込んできた。

「――」

 どういうことなんだろうか。

 他のメッセージも確認する。1つだけじゃない。複数ある。悪戯じゃ、ないよな?

 オレはアカウントのプロフィール欄を確認する。

 チャンピオン・ダンデのコスプレをしてゲーム実況をする。そういう設定で動画を配信しているのだが。






 ――今回のゲームにダンデって登場しなくない?
 ――ダンデって誰?
 ――今回のポケモンってチャンピオンが空席のままじゃなかったっけ?


***


 現在、電車に揺られて出勤中。つり革に捕まって人混みに耐える。

「はぁぁ……」

 海よりも深い溜め息が出た。

 憂鬱だ。満員電車に耐えているというのもあるが、ダンデに何も言い出せないまま日付ばかりが過ぎていくので、気が重い。

 私は今朝のやりとりを思い出して、バレッタにそっと触れた。

 ダンデに「元気がない」と指摘されて怯えてしまった。誤魔化したけれど、多分、また訊かれるだろうな。ダンデの顔に「心配」って書いてあったから。

 私、とても大切にされてる。髪を整えてくれるのもそう。恋人の件もそう。私の意見を尊重してくれている。

 そんな資格、私にないっていうのに。

 乱れた心のままで出勤できるんだろうか。休みたい……。いや、休んだところでダンデがいるからダメだ。それこそ気が休まらない。短冊のことを言い出せない後ろめたさがあるからだ。

「……帰るの諦めてくれないかなあ……」

 ポツリ、呟く。

 ……諦めるわけがないよね。むしろ、ゲーム進行バグの話を聞いてから、ますますやる気になっている気がする。

 以前ズシが動画配信をしているチャンネルなどで「動画のネタに使うのでポケモンのように見える生き物の情報や写真お待ちしてます」と呼びかけたので、色んな人から情報が集まってきている。半分以上はネタなので全然まったくアテにならないものばかりだったけれど、中には本物っぽい情報もあったようだ。

 なんとかして現地に行けないか、ダンデはズシや私と相談している。ダンデは方向音痴だから一人旅は絶対無理だ。「有給使って行く?」なんて話も出てる。

 ……そんなことしなくても、帰る手段はここにあるのにね。

 もういっそ、私が異世界についていく覚悟を決めるしかないのだろうか。

 でもそれは、暗い夜道を街頭も懐中電灯もスマホもなしに歩いていくようなものだ。すぐに決められない。一生を左右するものなら尚更。

 ダンデが帰るのも嫌。
 私が行くのも嫌。

 ワガママばっかり。
 変化を嫌って、現状維持。

 しょうがないじゃないか。ダンデが好きだから、帰る方法を言えない。

 ……。

 好きだから?

 じゃあ、嫌いなら言える?

 私はハッとなった。

 そうだ。ダンデを嫌いになればいい。

 そうしたら諦めがつく。ダンデを帰すのに未練がなくなる。

 ――いやいや。何バカなことを考えているんだろうか。

 やめろやめろ。すぐに頭を振った。

 電車のアナウンスが駅名を告げる。降りる駅だ。

 うーーん、ずっと考えていたら気が滅入ってきた。ちょっとトイレに寄ろう……。

 重い足を引きずって改札を通り、女子トイレへ向かう。

 トイレは空いている。入れ違いで1人出て行った。

 私は化粧直しとして設けられている鏡の前に立って、深く息を吸い、吐く。

 酷い顔だ。ダンデが心配するに決まっている。

「はあああぁ……」

 棚に手をついて俯く。
 ぎゅっと目を瞑った。

 あれだなあ……。気分はサスペンス劇場の犯人のよう。昔、テレビで見たような気がする。クライマックスシーンで探偵役にトリックやら動機やらを暴かれて崖っぷちに追い詰められる犯人。

「隠し通せる訳がない。いい加減、覚悟決めなきゃ……」

 私が異世界に行くと腹を決めて短冊のことを伝えるか。
 行かないと決めた上で短冊のことを伝えるか。
 2つに1つだ。

 しばらく石の様にじっとその場に立っていた。
 考えがまとまらない。
 
 ――ああ、そろそろ会社行かなきゃ。遅刻する。

『だいじょうぶ?』

 ふいに、鈴を転がすような小さな声が聞こえてきた。

「うん大丈夫」
『おねがいするなら ぼく かなえる』
「本当? でも、1回しかないでしょ」

 ――待って。私、今誰と会話してるの?

 ハッとなって鏡を見ると、

?』

 呼吸を忘れてしまった。
 目を大きく見開く。
 信じられない。

 写真で見たポケモンがいる。

 手紙に出たポケモンがいる。

「――っ!?」

 五芒星の上半分のような帽子。
 青い短冊。
 羽衣のようなひらひら。
 つぶらな瞳。

「えええええええっ!? ――っとと」

 両手で自分の口を塞いだ。

 逸る心を抑えて、私は手をゆっくりと引き離し、

「ジラーチ……?」

 そのポケモンの名前を呼んだ。