
嫌いになりたい⑦
カシワギくんとは部署が違うので、顔を合わせることは滅多にない。メッセージのやりとりも最近はしなくなっていたから、このまま自然消滅しないかなと淡い期待を抱いていた。
カシワギくんもこの辺りに住んでいると言っていたから、こうして出会うこともあるだろう。
でも、今まさかこのタイミングとは思わなかった。
「カシワギくんは今から出勤?」
「そうだよ。午前休貰ったんだ。さんは?」
「私は――体調不良でお休み」
もちろん噓だ。
「え、マジ? 大丈夫? 病院は? あ、なんか俺できることとか……」
心配されてしまった。罪悪感しかない……。
ボロが出る前に会話を切り上げよう。
「大丈夫! とりあえず帰って休むね」
「あ――! それってどうしたの? ぬいぐるみ?」
ぎくり。
ジラーチはぬいぐるみのふりを続けてくれているようだ。バレてない。大丈夫だ。
「か、可愛いでしょ」
「そういうの、さん似合うよね」
「……そう?」
「ゲーセンで取ったの? 俺、ユーフォ―キャッチャー苦手でさ。さん得意なら教えてほしいなー、なんて」
これは、うん。デートのお誘いなんだろう。
ズシがこの場にいたら「へったくそな誘い文句ね」とダメ出しをしていたのかもしれない。
私でさえ、もうちょっと上手い台詞があるんじゃないかな、と思うくらいの稚拙さだった。
――それもこれも私が曖昧な態度を取り続けているせい。
カシワギくんが必死に私を引き止めようとしているのは、多分、私と付き合えるチャンスがあるんじゃないかと思っているからだ。
この際だ! はっきり言わなければ……!
「カシワギくん、あのね。前からの食事の話だけど」
「ああ。実は俺、いい所を」
「私、行けない。その、2人っきりは、ごめん。無理だ」
カシワギくんは口を開けたまま固まった。
私の心の中は申し訳なさでいっぱいだった。
忘年会のときは、まだダンデが好きだという自覚はなかったから、カシワギくんのこと「付き合うのもありかな」なんて思っていた。
だけど、ダンデについていくと決心した以上、
「好きな人がいるんだ」
このくらい、胸を張って言うべきなんだ。
カシワギくんは、最初から――忘年会の時から、私に真剣に気持ちをぶつけてきてくれた。
それから逃げるのは、よくないと思う。曖昧に濁すのは、それこそ、不誠実だ。
それに、ダンデは私にいつも、剥き出しの思いをぶつけてくれる。いつもいつも。真剣に。誠実に。痛いくらいの思いを、私に見せてくれた。
私もそうでありたい。本気の気持ちから、逃げるようなことはしたくない。
私が、ダンデへの好意に向き合ったように。
カシワギくんとも、向き合いたい。
カシワギくんは何か言いたそうに口を開閉して――一瞬だけ瞼を閉じ、すううぅと息を吸い込んだ。それから、涙を堪えるように上を向き「そっか」とひと言だけ呟いた。
「もしかして、お隣さん?」
「――え? ああ。うん、そうなの」
そうだった。自分で作った設定なのに忘れかけていた。
ダンデはダン・レオンという留学生でアパートのお隣さんっていう設定だった。
「うん。そう。忘年会の帰りに会った人」
「……あー。あの外国人イケメンか」
カシワギくんは、がっくりと肩を落として脱力した。
「マジかー。せめてさんとデートしたかった」
「え、えっとー。ごめんね」
「いや、いいんだって。俺も自分で空回ってたの分かってたし」
なんとカシワギくんは学生時代から異性にモテていたらしく、自分から誰かに告白して付き合ったことがなかったらしい。
「なるほど、何もしなくても女の人が寄ってきたと……」
「言い方に語弊が――いや、合ってはいるけどさ……。んー。まあ、自分から誰かにアプローチするって初めてだったんだよ。今回はいい勉強になった」
カシワギくんはどこか吹っ切れた様子で笑った。
「ズシから聞いたんだけどさ、さんって結婚願望あるんだって?」
「え? うん。身内がひとりもいないから。早く家族が欲しいと思ってて」
「そのお隣さんは、家族になってくれそうなんだ?」
「うん。迷いなく『家族になろう』って言ってくれたね」
私がそう答えると、カシワギくんは「マジか。すげえな」と頭をかいた。
「……そういう点でも、俺、やっぱさんと付き合えなかったのかもな。結婚とか、まだ全然考えたことなくて」
「うん」
「正直、まだ遊んでたいのが本音」
「大抵はそうだと思うよ。私も両親がまだ生きてたら、結婚したいとか家庭持ちたいとか思ってなかったかも」
「仕事も大変だしさ」
「だよね。収入の問題とかね」
「それな。一緒になるって色々大変だよね?」
でも、
「でも、それでも、一緒になりたいって思った人だから」
「……ん。そっか。ありがとな、さん。はっきり言ってくれて。これで俺、次に進、あ」
急に「あ」って声をあげてどうしたのだろうか。私の背後に釘付けみたいだけど、一体何があるって――、
「!」
「わ、」
急に名前を呼ばれて心臓が跳ねた。
「ダン、……」
息を切らせたダンデが、ぐっとカシワギくんを睨んだ。
私の腕を軽く掴んで、カシワギくんから距離を取らせる。ずいっとダンデが私より前に出た。
「彼は確か、キミと同じ会社の――」
「うん、カシワギくん。たまたま駅で会って話してただけ」
珍しくダンデが不機嫌だ。なんというか、余裕のない感じ。
あー。カシワギくんへの態度といい、もしかして……。
「あー。どうも。忘年会のとき以来で。お迎え、っすか」
「ああ」
返事が素っ気ないよ、ダンデ。
カシワギくんはダンデの鋭い睨みから逃れるようにして私に話しかける。ーー苦笑いしながら。
「はは、ははは……。さん、俺、もう行くわ。じゃ、会社で会ったらよろしく!」
「ん、ズシと一緒ならご飯も大丈夫だから!」
「ありがとう! お大事に!」
言うが早いか、カシワギくんはあっという間に改札をくぐり抜けていってしまった。
「悪いことしちゃったな……」
私はちらりとダンデを見た。
「何がだ?」
「ダンデ、カシワギくんにあんな態度取ったらダメでしょ?」
「いつも通りだぜ?」
自覚がないのか……。
「ダンデ、もしかして、嫉妬してた?」
「しっと?」
何その、初めて聞いた単語です、みたいな反応。
「もしや嫉妬を知らない? ヤキモチという単語にも覚えがない?」
「それくらいは知っているぜ! そうか、嫉妬……」
ダンデは何度も何度も「嫉妬、しっと、ヤキモチ」と呟き、
「」
「うん」
「カシワギ、さん、とは何もないんだよな?」
「ないよ」
「以前、食事がどうのこうの言ってたのは?」
「さっき断ったし、好きな人がいるから、お付き合いは無理ってはっきり言ったよ」
「そ、そうか……」
するとダンデは、被っていた帽子を脱いで顔を隠してしまった。
「え。ちょっと、どうしたの?」
「んん。見ないでくれ」
ぷい、とそっぽを向かれてしまう。小さな子どもみたいだ。
噴き出しそうになったけど、頬の内側を噛んで堪える。
「ダンデ、それはさすがに気になるよ。何か不満があるなら言って」
「……」
ダンデはそろそろと帽子をずらし、右半分だけを私に見せてくれた。
「さっきのオレは、かっこ悪かった」
「そう?」
そうだぜ、とダンデは叱られた子どものように身を縮こませる。
「……オレは、キミが他の男と話している姿を見て嫉妬するような、心の狭い男なんだ」
「ん、……ふふ、そっか」
「そこで笑うのか?」
「そのくらい、好きになってくれたんでしょ、私のこと」
人間なら皆、誰もが持つ感情だ。
そっか、ダンデも嫉妬するんだ。
なんか、くすぐったいかも。そっか、嫉妬してくれるくらいには、私のこと、好きになってくれたんだって。
「私も嫉妬したことあるから、おあいこ」
「キミもあるのか?」
「あるよ。ズシとダンデがポケモンの育成で盛り上がってたときとか」
私は柔らかく微笑んでみせた。
「だから、いいんだよ。嫉妬するのは悪いことじゃないと思う。あ、でも嫉妬心剝き出しは良くないか。カシワギくんに謝らないと……」
「そうだな。……悪いことをした」
大きな身体を更に縮こまらせるダンデ。帽子で顔を隠すのはやめてくれたけど、とても落ち込んでいた。これはしばらく引きずるやつかもしれない。
「キミといると」
「うん?」
「キミといると、オレの知らない、味わったことのない感情が芽生えて、少し、戸惑う」
「嫌だった?」
「まさか!」
ダンデは大きく首を横に振った。
「感情を揺さぶられるのには、確かに戸惑いはするが、心地良いと思うぜ」
そして、彼はにっと歯を見せて笑った。
「オレ、キミを好きになってよかった」
ダンデが頬を赤らめてそう言うものだから、私にもダンデの熱が移ったような気がした。
本当、ダンデは素直に感情をぶつけてくるから油断ならない。時と場所を選んでほしい。
駅だよ。ここ駅。私たち、一体何やってんだろう。
私は動揺を悟られないように小さく咳払いをした。
「……こほん。ダンデ、帰ろう?」
「ああ、そうだな。帰ろう」
『 ダンデ なかよし』
「!」
今まで黙っていたジラーチが突然喋ったので、私はついに堪えきれなくなり、「ぬぅぐうああ……」といった変な呻き声をあげたのだった。