チャンピオンの文字練習


  

「そういえば、どうしてオレとキミは言葉が通じるんだろうな?」
「え? あ、確かに何で……」

 新宿で迷子になった時、気付いたのだ。
 オレはこの世界の文字が読めないことに。

「文字が違うなら、話している言語も違うということだろう。だが、不思議なことにオレとキミは会話が成立している」
「私とダンデだけ通じるわけじゃないもんね? ズシと会話してたもんね?」

 は「転生特典ならぬトリップ特典?」などと呟いていた。特典? そんなものあるのか?

 そのあとと議論を交わしたが、納得のいく答えが出ることはなかった。しょうがない、この問題は一旦脇に置いておくとしよう。

「それで、相談なんだが。この世界の文字を学びたい」
「文字を?」
「ああ。この間の外出で文字が読めない不便さを思い知った。トリップ原因を調べるためにも、ネットや本を読む機会も多くなるはずだ」

 に読んでもらう手もあるが、彼女は仕事で忙しい。自由に使える時間は、オレの方がたくさんあるのだ。

「自分の手で解決したい。そのためにも、文字を読めるようになりたい」
「――分かった。文字が読めるように、私も協力するよ!」

 この話から数日後、は数冊の絵本をオレに渡した。図書館から借りてきたそうだ。

「これが『桃太郎』『シンデレラ』『赤ずきん』。日本昔話と海外の童話。これで学習してみたらどうかな」

 日本の文字には、ひらがなとカタカナと漢字があるらしい。文字だけでそんなにあるのかと驚かずにはいられない。

「書き取りドリルも買ってきたから、これもどうぞ」
「サンキューだぜ! これでパソコンの検索が楽になるな!」
「あ。それはローマ字入力……、いや、ひらがな入力にすれば大丈夫か。うん、とりあえずこれやるといいよ」

 というわけで、早速オレはこの世界の文字を学び始めた。

 家事をさっさと終わらせて、オレはひらがなを練習する。なるほど、50音もあるのか。
 ひとまずの目標は、絵本がすらすら読めるようになること。これだな。

「……全然分からない。が、俄然やる気が出てきた!」

 ボールから出したリザードンがドリルや絵本に鼻を近づけて匂いを嗅いでいたが、すぐに興味を失ったらしい。そっぽを向いてカーペットのひかれた床にぺたりと伏せた。そして、オレを励ますかのように鳴いたのだった。

 そして、ドリルと格闘すること3時間。「わ」「れ」「ね」や「め」「ぬ」「を」の書き方に苦戦してしまったが、なんとなく文字が読めるようになってきた。……気がする。

「今度は単語を書き取りしてみよう」

 いや、その前に昼食にしよう。リザードンの分も準備しなければ。

 ひとりだと手抜き料理になってしまう。今日はパスタを茹でてナポリタンにしよう。あとは野菜……。確かレタスが残っていたはずだ。トマトを添えるだけでいいか。

 がいた手前、常に「大人」として完璧に振る舞っていたが、それももうやめだ。大体彼女、オレとそう歳が変わらなかった。勘違いしていたが、子どもじゃなかったんだ(この世界のニホンジンは、オレたちより幼く見える人種らしい)。

 そうなると、彼女は庇護すべき子どもではなくて、ひとりの大人。女性。ソニアと同じだ。……風呂場のあれで少しおかしいとは思ったんだ。……いや、この話はよそう。

「お休み、か」

 ――今はチャンピオン、お休みしなよ。
 ――何も異世界来てまで、肩書通りに振る舞わなくていいと思うんだけど。

 そんなことを面と向かって言われたのは、初めてだった。

 オレはどうやら、チャンピオンの役割に囚われすぎていて。
 チャンピオンじゃないオレを、忘れているようだ。

 オレは、ちゃんと「ダンデ」を思い出したい。
 思い出す、という言い方も変な話だが。

 の話によれば、人はいくつもの仮面をつけて生きているらしい。
 チャンピオンのオレ。
 息子のオレ。
 兄貴のオレ。
 幼なじみのオレ。

 きっといくつも仮面があるのに、オレはずっと、どの場面でも、チャンピオンの仮面を被っているだろう。

 それはそれでいいのかもしれないが。チャンピオンでなくなった時、仮面を被る必要がなくなった時。果たしてオレに残るものは何なのか。

 ――虚無、か?

 ポケモンが大好きという気持ち以外に、オレには何があるのか。
 好きなものは? 嫌いなものは? やりたいことは? 許せないものは?

 チャンピオンというものに、囚われるな。

 ――ありのままのダンデでいてほしい。分からないなら、手伝うよ。それくらい、させてよ。ね?

 出会って間もないオレに真摯に向き合ってくれる彼女が、オレには、少しだけ眩しい。

 そういえば、はこうも言っていた。

 この生活は予行練習だと。
 オレがもしも、チャンピオンでなくなったら。
 そんな日が来た時のための、予行練習。

 その日がいつか来るのだろうか。オレは強いトレーナーとバトルがしたいし、楽しみたいと思っている。師匠は18年もチャンピオンの座に君臨していたらしいが、オレもそのくらいチャンピオンとして存在するかもしれない。

 その「いつか」が「いつ」なのかは分からないが、その日のために「ただのダンデ」になってもいいんじゃないか。そう、思ったんだ。

「オマエに乗ってワイルドエリアを思う存分探索するのも楽しそうだよな」

 リザードンと食事をしながら、夢を語る。
 オレだけの夢を。
 手持ちのポケモンたちとなら、きっと楽しいに違いない。

***

「へー、1日でこれだけやったの?」

 と夕食を取ったあと、今日の成果を報告した。

「ドリル全部埋めたんだ! 見ないで書ける?」
「ああ。簡単な単語も書けるぜ」

 に練習したノートを渡す。彼女はペラペラとノートを捲り、目を丸くする。

「りざーどんって書いてある。あ、自分の名前も書けるようになったんだ? ふふ、いい調子」
「もう少し書けるようになったらカタカナを覚えようと思う」
「うん。頑張れ――っと、これって……」

 の手がとあるページで止まった。ああ、そこは。

 の名前を練習したページだ。

「この世界ではキミの名前を1番呼ぶことになるだろうから、覚えておきたかったんだ」
「そっか……。そっかあ……」

 はオレから目を逸らした。頬が赤い。……照れているのか?

「照れているのか?」
「はあ? そんなことないし! 見せてくれてありがとう」

 押し付けるようにノートをオレに返す。やはり照れている。拗ねているようだが、可愛らしいと思う。

「その調子で頑張って――あ、そうだ。もう1回ノート貸して」

 言われた通り再びにノートを渡す。彼女はテーブルに置いてあった赤いペンを持つと――ぐるぐると大きく何かを描く。

「それは何だ?」
「花丸! 日本ではね、テストの採点をするときは正解に丸をつけるんだけど、解答が満点、あるいは『よく出来ました』って意味で花丸を書くのよ」
「はなまる……」

 初めて見る、赤いぐるぐるの花のマーク。
 そうか、ニホンにはこんな文化があるんだな。

「よくできました……か!」

 から貰ったそれは、特別に輝いて見える。

「ありがとう、。やる気が出てきた」

 この調子でカタカナも漢字もマスターしようと、オレは改めて決意したのだった。

 ちなみに、アルファベットは一瞬で覚えた。アンノーンというポケモンがいるらしいが、あれによく似ていた。

 それに、ガラルの文字にも似ていた。オレが駅で迷ったときに見た構内図。あれに書かれていたのはこのアルファベットというやつだったのか、とちょっとした疑問が解決したのだった。