繋がって、受け継がれて、そして、


  

 いつかこの日が来ることを覚悟していましたが、いざ直面すると悲しいものです。

 夫が死んだ日、私は娘を抱きしめて、涙が枯れ果てるまで泣き明かしました。

 そして、ひと月が経った頃。私はようやく、夫の遺品の整理を始めました。
 やっと、心が落ち着いたと言いますか、覚悟が決まったと言いますか。改めて夫のいない現実を受け入れたのです。

 夫の部屋を整理していたら、私の若い頃の写真を見つけました。余白には『はな江さんへ 全ては7月7日の手紙に』と夫の字で書いてあります。夫がこういう謎解きが好きだったのを、私は思い出しました。本当、しょうがない人。私は彼の最期の謎解きに付き合ってあげることにしました。

 この写真は、夫と出会った日に撮った写真です。ちょうど七夕でした。ヒントといえばこれでしょうか。何となく写真を引っくり返してみれば、同じ筆跡で『君が大事な物をしまう場所に』とありました。

 仏壇を確認してみたところ、手紙と複数の写真と短冊が隠してありました。

 内容は――到底信じられないものでした。

 異世界? ポケモン? 夫が一体何を書いているのか、私には理解できませんでした。まさかあの人、研究のし過ぎで頭でもおかしくなったのかしら、と本気で心配になりました。

 とはいえ、納得できることもありました。あの人は外国から来たのか、全く日本語が話せなかったのです。文字も読めず、常識も知らなかった。犬や猫を見て変な顔をしていたのを薄っすらとですが、私は覚えておりました。

 そういえば時折、「僕は異世界から来たんだ」と話していましたが……、私は信じられませんでした。夫は真面目な顔して冗談ばかり言う人でしたもの。私はよく騙されたものです。

 そんなことを思い出しながら、私は複数の写真を確認しました。どれもジラーチが写っています。何か細工があると疑いましたが、私はこの生き物に見覚えがありました。夫は初めて会った日、この写真の生き物を連れていたような気がします。

 生き物はいつの間にかいなくなっていましたが、私はそれを大して気にも留めていませんでした。2人と1匹で写真を撮ったことも、実はあんまり覚えていません。手紙の通り、私は酔っていましたから。夫と出会った七夕の日も、記憶が曖昧なのです。

 ただ、言葉も通じず途方に暮れていたあの人が、とても寂しそうに見えたから……。笑ってほしくて、写真を撮ったのです。助けてあげたかったのです。その気持ちだけは、覚えております。

 それにしても……。本当にこの短冊で願いが叶う? あらゆる願いを叶える? そんなことが可能なのでしょうか。もしそうなら。もし、そうなら……。

 いえ、馬鹿なことを考えるのはやめましょう。もう一度会いたいのは確かですが、死者を蘇らせるなんて……。そんなこと、さすがに無理でしょう。きっと、あの人の最期の冗談です。

 百歩譲って異世界から来たことを信じるとしても、短冊のことだけは信じ切れません。だから、あの人がついた優しい嘘なのだと、そう思うことにしました。妻と子を置いて先に旅立つことに罪悪感を覚えた、あの人の最期の嘘だと。

 私は手紙と短冊を元の場所に戻しました。仏壇の引き出し、底板の裏側です。
 写真はアルバムにまとめておくことにしました。

 夫が写っている写真は多くありません。写真は撮られるより撮る方が好きなのだと言って、私や景色ばかり撮っていました。それに、夫は娘が生まれてから彼は入退院を繰り返していました。元気な姿だけを残してほしいから写真は撮らないでくれとお願いされたのです。

 だから、手紙と一緒に仕舞ってあったこの写真は非常に貴重です。

「お母さん、向こうの掃除終わったよー……って、何それ?」

 私を呼びに来た娘が、写真の中の生き物を指差します。

「犬? 猫?」
「これは……」

 言葉に詰まりました。ポケモン、ジラーチ……。上手く説明できる自信がありません。

「……うーん、そうね。ええと、会社の人から預かった珍しいペットだったのよ。外国の。日本にはいないらしいわ」
「へえ〜、そうなんだ。可愛いね」

 娘にはこう誤魔化しました。

 この世のどこにも存在しない、不思議な生き物。これは一体何なのかと訊かれたら、何て答えればよいのでしょうか? アルバムを見せなければよいのでしょうが、そうもいきません。夫と会えるのは、もう写真の中だけなのです。見る機会はこれからも増えるはずです。

 将来娘がもっと大きくなったら、今のような誤魔化しは利かないでしょう。かと言って、正直に話してよいものか。分かりません。

 私は実際にこの目でジラーチを見ています(記憶は曖昧ですが)。でも、娘は違います。お父さんは異世界から来たなんて、信じるかどうか分かりません。いや、信じなくてもいいのかもしれませんが……。話すのは今ではないと思いました。

「……この子には悪いけど、切り取らせてもらうわね」

 私は、ジラーチが写っている複数の写真にハサミを入れました。

 切り取ったジラーチは、捨てられません。夫がこの子を大事に思っているのは、手紙から伝わってきましたもの。だからもう一度、例の仏壇の所に仕舞っておくことにしました。こうすれば、夫とジラーチはいつでも一緒です。

 夫の秘密を明かすのは――娘がもっと大きくなってから。そのときが来たら考えましょう。

 そうして私は、しばらくジラーチのことも短冊のことも忘れていたのです。

 これからは母と子2人で生きていかなければなりません。考えることが、やらなければいけないことが、たくさんありました。

 目まぐるしく日々が過ぎていきました。

 何年、何十年、時が過ぎていきました。


***


 短冊の存在を思い出したのは、私が「おばあちゃん」になってからのことです。

『おばあちゃん、病院絶対行ってよ? 明日! 必ずね!』
「はいはい、分かってますよ」

 電話の向こうから、孫の心配そうな声が聞こえてきます。

 娘夫婦が早くに亡くなり、私は孫を引き取りました。

 娘は、旦那さん(私から見たら娘婿ですね)となる相手側の家族の大反対を押し切って結婚しました。所謂駆け落ちというやつです。

 いい人がいることは知っていましたよ。幸せならそれでいいとは思っていましたが、まさか駆け落ちまでするとは思っていませんでした。

 娘は一切私に頼ろうとはしませんでした。時折連絡が来て孫の顔も見せてはくれましたが、金銭の援助も何かしらの助けも必要ないと宣言しました。恐らく、私の苦労を察してのことでしょう。母子家庭でしたからね。もう迷惑をかけたくないと思ったのでしょう。

 でもね、事故だったとはいえ――私より先に逝くなんて――こればかりは怒りますよ。お説教は私があっちへ行ってからにしますが。

 確かに娘が亡くなったは悲しいことでした。でも、孫の成長を一番近くで見守ることができたのは、よかったことだと思います。なんとか成人するまで育てられました。本当に、よかった。

「ゴホッゴホッ」

 最近咳が続いています。早めに病院には行ったのです。ただの風邪と診断されましたが、それにしては長引いているような気もします。

『……おばあちゃん、病院連れて行くよ? 明日、私と一緒に行こうよ』

 孫は優しい子に育ってくれました。老い先短い私ばかりを優先して、友人や恋人といった人たちとの交流を疎かにしていないか心配です。

「大丈夫。明日、必ず行きますよ。だから、あなたは会社に行きなさい。必ずですよ」

 心配する孫を宥めすかして、私は電話を切りました。実のところ、昔から病院は苦手なのです。寝ていれば治ると言いたいところですが、夫のこともありましたし、観念して医者にかかろうと思います。

「でも、私はもう十分長く生きましたからね……」

 一緒に暮らしたいという孫の申し出を、私は断っています。私もいい歳ですから。残された時間が少ない私に構うより、これから共に未来を歩む人との時間を大切にしてほしいのです。

 でも、心配ではあります。確実に私は、孫を置いて行く身です。

 私がいなくなったら、あの子は独りになる。
 家族が誰ひとりいなくなってしまう。

 いい人はまだいないようですし、どうにか幸せな人生を、あの子には歩んでほしい。

 何かしてあげられることはないかしら……。
 私がいなくなっても、してあげられること……。

「……ああ。そういえば」

 今まで忘れていたのに、どうしてでしょうね。私は、仏壇に仕舞ってそのままにしていたアレの存在を、思い出しのです。

 もしかしたら、星が綺麗な夜だったからかもしれません。

 そう、夫と出会ったのも、こんな風に星が綺麗な夜でした。
 空に手が届きそうならくらい、素敵な夜でした。

「……あった」

 仏壇には、手紙と短冊が仕舞ってありました。
 50数年ぶりに、私はその手紙を読み返しました。

 やはり、お伽噺のようなことが書いてあります。ポケモン、異世界、短冊……。やはり全ては信じられません。短冊のことは特に。……でも、それでいいのかもしれませんね。

 だって、七夕に飾る短冊に本当に願い事を叶える力があるのかなんて分かりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。流れ星への願い事も似たようなものです。

 結局、願いを叶えるのは自分しかいないのです。

 人事を尽くして天命を待つ、という言葉があります。つまり、短冊や流れ星は自分の願いを叶える……、そう、おまじない。言うなれば、自転車の補助輪のようなものではないでしょうか。

「それなら、……孫のために使いましょうか」

 今使わないで、いつ使うというのでしょう。
 娘には使えなかった。それなら、孫のために使いましょう。

 使うのは1枚だけでいい。残りの1枚は、孫に託しましょう。
 どうしてもどうしても耐えきれなくなって、何かに縋りたくなったときのおまじないとして。
 あの人が私のために譲ってくれた短冊を、今度は私が孫のために譲るのです。

 この短冊を孫がどう使うのかは自由です。孫が使ってしまっていもいいし、孫が次の子に託したっていいのです。

「まあ、手紙に気付いたらの話ですけれどね」

 敢えて元の場所に戻しておくことにします。あまり積極的に明るみにしない方がいいでしょう。自分の身内が異世界から来たなんて、信じがたいことでしょうし。あくまでおまけ。ボーナスというものです。

 気付いても気付かなかくてもいい。
 私と夫からの贈り物。

 でも、……あの子なら見つけるでしょう。きっとね。

 そうして私は、短冊に願い事を書きました。

 ――が幸せになりますように。

 短冊が一瞬だけ光ったように見えましたが……気のせいでしょう。
 私は安堵の溜息をついて、ゴホっと咳込みました。

「そうだ、片付けないと」

 孫のために残しておいた1枚の短冊がアルバムに挟まってしまったことに気付かないまま――。

 私はアルバムと手紙と短冊を、それぞれ元の場所に戻しました。

 そこから私は、二度と家に帰ることはありませんでした。



 ねえ、
 あなたの幸せを、私は願っているわ。

 もう話をすることも、手を繋ぐことも、頭を撫でてあげることもできないけれど、

 あなたのお父さんとお母さん、おじいちゃんとおばあちゃんは、

 あなたの幸せを願っているわ。