「何をそんなに慌てているのですか」①


『本当の自分、忘れてない?』

 休憩室にあるテレビから聞き覚えのある声がしたので、キバナはスマホから視線を上げた。

 テレビ画面には、猫背で冴えない女性が俯いて歩いている。
 おもむろに取り出したアイシャドウがキラリと光った瞬間、景色が変わった。

 冴えない女性はあっという間に艶のある“オトナの女性”へ変身する。

『なりたい私で、生きていく』

 キラキラと輝くラメ入りのアイシャドウをつけた、みずタイプジムリーダーのルリナが妖艶な笑みを浮かべている。

 なるほど、新作のアイシャドウのCMらしい。彼女が一歩踏み出すだけで、シュートシティの噴水広場はランウェイに早変わりだ。さすが、普段からモデルの仕事をしているだけある。

「ルリナさんってここのブランドの広告塔されているんですね。なんだか嬉しいです」
「え、どうしてです?」
「実は私、ここのブランドを愛用していまして」
さんが今使ってるのがそうなんですか?」
「ええ。見てください。ケースが可愛いので気に入ってるんです」
「わあ、可愛い! ――あ、レイナさん、見てください。さっきルリナさんが出ていたCMのブランドの!」
「どれどれ?」

 ジムの女性陣がにぎわう様子を、キバナは微笑ましい気持ちで眺めていた。

はああいうのが好きなんだな)

 キバナはの好きなものを心のレポートにしっかり書き残した。

 キバナがフェアリータイプのようなの声を聞いてしまったあの日から、もう10日が経とうとしている。
 2、3日ほど気まずい思いをしていたキバナだったが、が「キバナ様。ぼーっとしてないで書類確認していただけますでしょうか。あと15分でミーティングですよ」とあまりにもいつも通りだったので、気にしないことに決めた。

(距離を取られる覚悟くらいはしてたが、にとって、あの夜の出来事は、ワンパチにじゃれつかれた、くらいにしか思ってないのかもしれないな)

 まあ、それはそれとして。

(正直、あの声をまた聞きたい)

 キバナはすっかりの声に惚れていた。

 あの夜の、悲鳴に似たあれが頭から、いや耳から離れないのである。

 の声は、お気に入りのポケチューバー、の声に近いものを感じた。

 なんとかして、もう一度あのフェアリータイプのような声が聞けないものか。この10日間、キバナは熱心にを観察していた。

 その甲斐あって、分かったことがいくつかある。

(ヒトミたちとの会話でもいつも通り、か。女性同士の会話だと柔らかい感じになるが、声質自体は変わらないな)

 あのときの声がフェアリータイプならば、普段の声はこおりタイプである。

(女性相手だと不意にかかった【みずでっぽう】くらいの冷たさだが、男に対してだと一段と冷たくなる。【こごえるかぜ】あるいは【ふぶき】。もしくは冬場、外にずっと出ていたジュラルドンを触ったときみたいだ)

 男性に対しては些か素っ気ない気がする。

(あのフェアリータイプの声を聞くには女性相手、かつ驚かせたとき、か?)

 それは、なかなか難易度が高い。

 まるで勝負の戦術を組み立てているときのように頭を悩ませていると、

「あー。なるほど、眉ってそう描くといいんですね」
「骨格に合わせたものがあるので、こうやって――」
「へえ、知らなかった。メイクっていいですね。自分の欠点を目立たなくできるし、いいところはそれを活かして更に綺麗に、可愛くできるし」
「分かります。すごく分かります」
「メイクは女性だけのものってわけじゃないですが、可愛くなる手段が女性にはたくさんあって、こういうときは女に生まれてよかったなって思うんです」

 女性陣の話題はメイクのやり方に移っており、かつてないほど盛り上がっていた。

 思えば、ポケモン以外でこんなに盛り上がっている場面を見るのは初めてかもしれない。
 が微笑んでいたので、キバナはあの輪に混ざれない自分を恨んだ。流行りの化粧品くらいは分かるが、メイクのやり方なんて対策外である。ちょっと今だけ女になりたいぜ、なんて思ってたところ、

「キバナ様」

 休憩室にリョウタが入ってきた。

「お、どーした?」
「チャンピオンが――、ユウリさんがいらっしゃいました」
「ユウリが? 約束は……、してないよな」

 リョウタは困ったように眉を下げている。

「はい。アポはないんですが、どうされますか?」
「何か用事言ってたか? それ次第だな」

 するとますますリョウタは眉を八の字に下げた。

「それが……」
「それが?」
「『新しい戦術を思いついたのでダンデさんに挑む前の練習台になってください。あとお小遣いください』だそうです」

 部屋がシンと静まり返った。
 女性陣にもリョウタの言葉が聞こえてきたらしい。

(ふーん? なるほどなるほど。お小遣い? オレさまから賞金を巻き上げようとしてるんだな? 自分が負けるなんて微塵も思っちゃあいない、と)

 キバナの身体の奥底から、沸々と何かが沸き起こってくる。

 ――闘志という、熱いものが。

「煽ってんのか、ユウリ。絶対負けねぇ」

 キバナの目は釣り上がっており、マリンブルーの瞳にはギラギラとした光が灯っていた。


***


「最後の門番」「宝物庫の番人」。様々な異名を持つキバナはガラルのトップジムリーダーであり、他の地方に行けばチャンピオンになれるほどの実力を持った男だ。

 しかし、彼はダンデに勝てない。
 公式戦では10連敗していた。

 なにしろ相手は、あのダンデ。
 ガラルの英雄。無敵のチャンピオン。
 敗北を知らない男。

 いつかオレさまがダンデに勝利する。

 キバナも、キバナのファンたちも、そう信じて疑わなかった。

 ――あの日までは。

 きっと、誰も彼もが忘れていた。
 時代というのは移り変わるということを。

 ガラルの英雄として、人々の期待に応えてきた男は。
 10年もの無敗記録を築き上げてきた男は。

 あの日、ひとりの少女にその玉座を明け渡した。
 正々堂々の真っ向勝負で。

 文句のつけようがない白熱したポケモン勝負を経て。

 人々の祝福を受けながら、新たなチャンピオンが誕生したのだった。

「カンムリ雪原で珍しいポケモンを仲間にして、キャンプして、仲良くなって、特訓して! もっと強くなりました!」

 その新たなチャンピオンというのが、今、キバナの目の前でヒバニーのように飛び跳ねるユウリである。

 ナックルジムの受付でキバナはユウリと相対していた。チャンピオンになっても相変わらず各地を巡って楽しい旅を続けているらしい。

 ユウリは瞳を“すいせいのかけら”のように輝かせているが、

「バトルタワーでダンデさんに挑む前の肩慣らしで、キバナさん、勝負してください! お小遣いください!」

 少しばかり生意気な言動をとっているので、キバナからしたら可愛げがない。

(ユウリなりに懐いてんだよな、これ?)

 オレに慣れたってことだろうか、とキバナはユウリに出会った頃を思い出す。ナックルシティの宝物庫では口数も少なく――いや、当時からちょっとばかり生意気だったかもしれない。

「おーおー、ユウリ。余裕だな。オレさまにそう簡単に勝てると思ったら大間違いだぜ」
「簡単とは思ってません! 私、キバナさんにはジムチャレンジのとき、一度負けてますし……」

 そうなのだ。ユウリはジムチャレンジで一度、キバナに負けている。

 キバナはダブルバトルでチャレンジャーと戦う。天候を操るなど戦術もよく練られたものだ。脱落者も多い。

 伊達に「最後の門番」と呼ばれてはいない。キバナは間違いなく強いのだ。

「ジムチャレンジは期間内にバッジをゲットできるまで何回でも挑戦可能ですよね。でも、もし挑めるのが1回だけだったら……? 私の旅はあそこで終わってました」

 それが堪らなく悔しい、とユウリは両の拳を握りしめた。

「ダブルバトルが上手いトレーナーは、私が知ってる限りキバナさんしかいません! だから、キバナさんに勝てたら胸を張ってダンデさんと戦えます!」
「……なるほどな」

 キバナはユウリを少し見直した。

(ユウリなりに色々考えているんだな)

 チャンピオンになるくらいである。負けん気は人一倍強い。生意気な言動は、ある意味彼女自身を奮い立たせるものなのかもしれない。

「リョウタ」
「はい。スタジアムの準備は万全です」
「さすがだぜ、リョウタ」

 キバナはスタジアムへ足を向ける。

「ちょうど決算も終わったし、今はオフシーズン。スタジアムを使うイベントはない。いいぜ、ユウリ。相手してやる」

 キバナは不敵な笑みを浮かべる。
 眦は釣り上がり、柔和な雰囲気から一転。臨戦態勢を取っていた。

「手加減なしだ、やろうぜ」