「戻ってきてほしいんだ」③


 キバナは悩んでいた。

 果たして自分はガチ恋勢なのだろうか、と。

 に恋をしているから、声が似ているのことがこんなにも気になるのだろうか。

 プレゼントを贈る相手が気になってしまったことも、頭を撫でてしまったことも、全てはが原因なのだろうか。

 どんなに考えても答えが出ることはない。迷宮に入り込んでしまった。

(気になったきっかけは――そうだ。を驚かせた時の声がに似ていたから。それまでは近寄りがたくて、仕事仲間としてどう付き合っていけばいいか探っていたんだよな)

「入口に突っ立っていると邪魔です」と言われたこともあった。それらを考えると、やはりネズの「届かない恋だから身近な相手に重ねている」という指摘は正しいのかもしれない。

(それに、の方はオレさまのことを意識していないみたいなんだよな。その点は助かったというか、なあ……?)

 つい先日、うっかりの頭を撫でてしまったが、彼女の態度はいつも通りのものだった。

 キバナの眉間のシワが更に深くなった。ガチ恋が悪いわけではないが、これは不毛な恋ではなかろうか、と自身の気持ちの行く末を案じたからだ。

 一方、ナックルジムのジムトレーナーたちは、キバナの張りつめた雰囲気に戸惑っていた。いつも通り出勤してきたら、顎の下で手を組んだキバナが、非常に気難しい顔をして自分の席に座っていたからだ。挨拶をすれば「おう、おはよう」と爽やかな笑顔が返ってきたが、すぐに鬱々としたものへ戻ってしまう。リョウタをはじめとしたジムトレーナーたちは「何かあったんですか」「知らない。何か聞いてないの」「いやまったく」と囁きあって、キバナの様子を窺っていた。

 とはいえ、黙っていても事態は解決しない。憂いの原因を探るため、リョウタが動いた。

「キバナ様」
「どうした、リョウタ」

 気が緩んでしまいそうな笑みを浴び、リョウタは一瞬怯んだ。キバナの熱狂的なファンがいたら卒倒しているだろう。リョウタは後方にいるはずのヒトミとレナを見やった。2人は胸の前で拳を作りこちらを応援している。南無三。リョウタは一瞬だけ目を瞑ったあと、口を開いた。

「険しい顔をされていますが、体調が優れないのですか?」
「いや、体調はバッチリだ」

 答えつつ、キバナは自分の頬を触った。

(表情に出るほど悩んでいたのかよ)

 リョウタの眉は八の字に下がっていた。

「それとも何か気がかりなことが?」
「いや、特には」
「本当ですか? 掃除が行き届いていないとか、この間デリバリーしたランチが口に合わなかったとか、この間の練習試合のダメ出しとかは!?」
「ないない。オマエたちに不満なんて」
「我々で解決できることでしたら、何でもおっしゃってください」
「ああ、うん。ありがとな。オマエの気持ちは受け取った」

 まさか恋愛で悩んでいるとは言い出しづらい。当たり障りのない返事だけしておく。

「キバナ様、わたしたちもいますので」
「些細なことでもおっしゃってくださいね!」

 こちらの動向を見守っていたヒトミとレナもリョウタに同調した。心の底からキバナを案じているのは理解したが、3人とも真面目過ぎた。この状況で「いやー、オレさま推しにガチ恋しているのか悩んでいるんだよなー。が気になっていてさ」と打ち明けたらガッカリされてしまうだろう。

「ヒトミとレナもサンキュー。とりあえずは大丈夫だからな。ひとりで解決できる問題だからさ」
「本当ですか?」
「まさか炎上の兆しではないですよね?」
「前回の経験がるので対策はバッチリです」
「炎上ではない。大丈夫、大丈夫だって」
「おはようござい――皆様、キバナ様に詰め寄ってどうされました?」

 ここで颯爽と登場したのは、キバナの悩みのもと――推しポケチューバーと声が似ているだった。今日も彼女は氷を連想させる雰囲気をまとっていた。しかし、声だけは3ヶ月前より些か柔らかい。

「もしかして炎上ですか? 先程各SNSを見回りましたが、キバナ様は槍玉に上がっていませんでしたよ」
までかよ。オマエたちの中のオレさまのイメージって炎上なのか……?」

 冗談めいた口調でキバナが言った。

「っと。リョウタ、ヒトミ、レナ。ありがとな。何かあったらオマエたちに相談するからさ」

 もちろんにも、と付け加える。
 を除いた3人は「承知しました」とうなずいた。これ以上の追及は避けるべきだと判断したからだ。

「さて、と。も出勤したことだし、5分後に定例ミーティングな」
「キバナ様、今日はダンデ委員長がいらっしゃいますから、ミーティングは早めに切り上げてくださいね」
「あー、そうだった」
「ポケモン勝負をされるんでしょう? コートは整備しているので使用の際は我々の誰かにお声がけくださいね」
「了解」

 そして椅子に座り直したキバナは、あることに気付く。

がオレのSNSアカウントを見てる? マジで?)

 恐らく彼女のことだから「仕事の一環で見てます」という理由だろう。

(そうか、見てるのか。そうか、そうか……!)

 この場にキバナひとりだけだったら、今座っている回転椅子をくるくる回して口笛を吹きたいくらいだった。


***


 は悩んでいた。

 頭を撫でるということは、脈ありと判断して良いのだろうか、と。

 突然のプレゼントも、好意を寄せられている証拠ではないのだろうか。

 しかしこの2つの出来事を恋愛に結びつけるのは早計ではないのだろうか。現にキバナはいつも通りに接してくれている。部下と上司。仕事だけの関係だ。だから、分からない。これからどうするべきか。

(交際経験が少ないことが仇になったわ。こういう時に訊ける友人もいないし、ネットの結果だけを鵜呑みにするのはちょっと違う気もする。そういう可能性もある程度に留めておくのが吉でしょうね)

 検索エンジンに「頭を撫でられる」のキーワードを打ち込んだところ、大抵のサイトで「好意があります」と記載されていて大層驚いた。ポケモンや小さな子どもの頭を撫でることくらいあるだろうに、これが異性となると恋愛の意味になってしまうのはどうしてだろうか。

 プレゼントについても調べてみたが、おおよそ「あなたに好意があるから」という答えが多く、を大いに困らせた。

 他人の一挙一動を何でもかんでも恋愛に結びつける考え方は、個人的に好きではない。

(キバナ様が私の頭を撫でたのは、そうね。彼のポケモンに似た雰囲気があったから。プレゼントだって、私があのボトルを物欲しそうに見てたから気まぐれに……って、ちょっと無理矢理過ぎるかしら)

 きっと何か高尚な理由があってキバナ様は私の頭を撫でたのだ、プレゼントも言葉通り激励の意味なのだ、と自分を納得させることにする。恋愛的な好意など、思い上がりも甚だしい。自分のどこに好かれる要素があるというのか。今すぐこの悩みをゴミ箱に放り投げてしまいたい。

 しかし、には人一倍こういった恋愛に気を遣わねばならない事情がある。強い感情を向けられるのは、苦手だった。

(好きは苦しい。愛は重い。私はもう、そういうのはたくさんだわ)

 もしもキバナが自分に好意を寄せているのなら、もっと距離を取らなければ。

 は小さく首を振り、休憩室を出た。午後からジムの受付に立つのだ。今はオフシーズンだからチャレンジャーが来ることはないが、ナックルジムはエネルギープラントも併設された場所だ。施設の見学に訪れる人間が少なくないので、こうして受付に立つ必要がある。また、ナックルジムの外観は歴史的価値があるそうで、観光客に向けての案内業務を行うこともある。

「レナさん、交代のお時間です。お昼行って来てください」
「ありがとうございます」

 引継ぎを終えたは、ふと、職場の先輩であるレナならば分かるだろうかと思い立ち、

「あの、レナさん。仕事とは全く関係のない、雑談程度の話なんですが……。キバナ様のことです」

 と質問を口にした。

「私よりキバナ様とのお付き合いが長いですよね。キバナ様は部下の頭を撫でることが癖だったりするんでしょうか」

 レナは口元に手を当てた。

「うーん、癖ではないと思いますが、誰かを褒める時は頭を撫でていた記憶が……」
「本当ですか!」
「確かリョウタが昔に……」
「なるほど!」

 の顔がパッと明るくなる。では、自分が頭を撫でられたのは恋愛的なものではないと見ていいだろう。きっと部下への気持ちが篤い人なのだ。

「そういえば、誕生日プレゼントも貰ったことがありますね。何かのイベントがある時に、キバナ様は何しかしらプレゼントを用意してくださって」
「マメですね」

 レナは「ええ、マメなんですよ」と深くうなずいた。

「きっとクリスマスやさんの誕生日にプレゼントを用意するんじゃないかと」
「ふふ、楽しみですね。私も用意しようかしら」
「じゃあ、さんもナックルジムトレーナーのチャットグループに入りませんか? 実は毎年ジムトレーナー一丸となってキバナ様へのプレゼント相談をしているんです」
「いいですね、是非」
「あとでグループに誘いますね」

 休憩室へ向かっていったレナの背を見送り、思う。

(やはりキバナ様は部下想いなのね。この間貰ったパフュームボトルも激励のプレゼント。それ以上の意味はないんだわ)

 ふと、あの休日を思い出す。偶然キバナと出会い、プレゼントを選ぶことになったあの日だ。

 キバナは優しくて、話が面白くて、が知らないことを知っていて、楽しさのあまりついつい「デートってこんな感じでしょうか」と口走ってしまった。

(距離を取っていたつもりなのに、キバナ様の前だと緩んでしまう)

 優しいから、その優しさが自分だけに向けられたものだと勘違いしそうになる。
 でも、それは、全て思い上がりなのだ。彼は皆に平等だ。部下として目をかけられた。それだけだ。

(好きは苦しい。愛は重い。でしょう?)

 はもう一度だけ、自分に言い聞かせた。