とびきりの愛ってやつ

「なあ、そういうのもうやめへん? 何回同じこと繰り返してんねん」

 自分の言葉が響かないことをチリは知っている。
 言葉というのは、こちらに絶対的な正義があったとしても、揺るがぬ真実を語っていたのだとしても、誰が言ったかが重要である。

 例えばの話、権力者にこびへつらい、力を持たぬ者を虐げる人間から「弱いものいじめはやめろ」と説教されたらどうだろうか。どの口が言うとんねんと思うはずだ。

 チリの言葉はに届かない。はチリを嫌っているからだ。

「うるさいなあ、チリちゃんには関係ないじゃん」

 確かにそうだ。チリとの縁は浅い。同じ学校に通っていて、1回だけ同じクラスになった。それだけの縁である。会話の機会も少なかった。

 だというのに、はチリを「チリちゃん」と呼ぶ。
 チリちゃん。その響きに囚われる。
 もしも名前に匂いがつくのなら、今だけはレモンの香りがするだろう。

 が名前を呼ぶ時だけ、チリは遠い昔に経験した学生時代を思い出すのだ。

 はチリにとって憧れの人だった。
 チリとは違う部類の美人で、透明感があって、深窓の令嬢という言葉が似合う人だった。

「関係ないことはないやろ。同じ学校のよしみやんか」
「だから何よ。昔の話じゃない」

 ああ、そうだ。昔の話だ。

「私が何をしたってチリちゃんには関係ないじゃん」
「あるよ」

 チリはを真っ直ぐ見つめる。

「あんたがボロボロになるたび、うちの心も同じように傷ついとる」

 始まりは、学生時代。がチリの友人の恋人を寝取ったことからだった。
 目も当てられないほどの修羅場を経て、はクラスから孤立した。そこから今までの所業が浮き彫りになり、彼女には常に悪い噂がつきまとうようになった。

 学校を卒業したあと、は不誠実な恋愛を続けているようだった。チリがアクションを起こさなくとも、その手の話が友人知人を通して入ってくるのだ。

 は刹那的な恋を繰り返してきたようだった。いたいけな少女に「愛している」と囁いた口で、高嶺の花のような女性に「私の心はあなただけのもの」と告げる。
 けれどもの心は誰のものにもならないのだ。
 今日も誰かを弄んでは、「これは本当の愛じゃなかったね」とベッドの中に冷たい台詞だけを残していく。
 彼女は誰かと一緒に朝を迎えることはない。昇る朝日は2人を照らさない。

(うちと正反対やなあ、この子)

 ずっとずっと、学生時代から恋を育ててきたチリとは違う。
 の恋はすぐ燃え尽きてしまう。花火みたいだ。いや、流星か。彼女を誰も捕まえられないから。



 熱を込めてみる。これが本気なんだと伝わるように。
 チリはの頬に触れた。何故かは逃げなかった。

「腫れてる」

 左の頬が赤くなっていた。きっとひと晩過ごした相手にやれたのだろう。すり、と撫でればは不愉快そうに顔をしかめた。

(関係ないことはない。だってあんたはうちの憧れだったから)

 読書をしている時の横顔が好きだった。思い出の中のはいつも横を向いている。
 教科書を読んでいる時のよく通る声が好きだった。凛とした声の中に抜けきれない幼さが宿っているから。

 けれども、今のにあの頃の面影はない。
 あれほど真正面から見たかった顔には覇気がないし、声も気怠けだ。大人になった分の色気はあるが、どこか触れてはいけない艶めいたものを感じる。

(お互い大人になって、違う道を歩んどる。せやけど、どうしてもあんたを見捨てるなんてできへんねん)

 を見かけたのは偶然だった。チリの知らない女性とただらぬ雰囲気で夜の街に消えっていった。あの噂本当やったんや、まだあんな爛れた恋愛してるんや、とショックだった。

 あの光景を忘れようとして、でもやっぱり忘れられなかった。
 誰かと付き合おうとしても諦められなかった。
 がいい。彼女がいい。
 ならば、不毛な恋愛はやめるように言うしかない。

 がよく現れる場所に待ち伏せて、チリはを説得し続けた。

 それでもはやめてくれない。むしろチリを厄介者扱いする始末だ。
 欠片もこちらに興味がないのが分かる。チリの容姿をもってしても、どんなに心を砕いても、の気持ちは動かないのだ。
 
「痛いやろ。こんな恋なんて長続きせえへんで。だから、もうやめよ。が一番欲しいもんはチリちゃんがあげられるから」

 もう、張られた頬を押さえてぼうっと空を眺めるを見たくなかった。

「本当に?」

 の喉奥がクッと鳴った。

「チリちゃんは、本当に私の欲しいものが分かるわけ? いやいや。無理無理、無理だよ。だってチリちゃんは、違うじゃない」
「何がちゃうん?」
「私に嘘ついてる。本音隠してるのが分かる」

 チリはギクリとした。の声は震えている。

「あのね」

 は目を細め、頬に触れているチリの手に自分の手を重ねた。

「恋愛はゲームなの。どうやったら私に堕ちてくれるのか過程を楽しむゲームなの。私に興味ない子がこっちを向いて身体を預けて心まで手に入れたら――それでおしまい。それだけなの。私が欲しいのは達成感なのよ」
「じゃあ今度はチリちゃんをオトしてみいひん?」
「……チリちゃんはそういうんじゃない。私、チリちゃんだけは無理」

 の声が一段低くなる。眉間にシワを寄せて。

「昔からそうだったよね。不真面目な見た目のくせしてさ、いつもいい子ぶってんの。『ほらチリちゃんの言う通りやったやろ』とか、こっちを見透かしたような態度が気に入らなかった。チリちゃんはオトしたくない。ううん、オトせない」

 はチリを睨む。

「それに、自分が傷ついても絶対考えを曲げないでしょ。一途に想うでしょ?」

 だから私とは無理なのよ、とは人を喰ったような、ふてぶてしい笑顔を浮かべた。

「私が逃げたって【パルデアの大穴】の底まで追いかけてきそうだよね、チリちゃん」
「……よお分かっとるやん。チリちゃんのこと、ほんまは好きやろ」

 刹那、の顔が歪んだ。

「勝手に言ってろ」

 振り払われたチリの手は宙を切る。足早に去るを追いかけようとして、やめた。

(また次もある。あの子は遊ぶ場所変えるやろうけど、関係ないわ。絶対逃がさへん)

 まだ決定的な2文字を告げていないから大丈夫だろう。告げたら最後、はきっとパルデアから出ていくに違いない。

「なあ、。あんた昔からおとぎ話が好きやったやろ。チリちゃんが王子様になったるから、いい子になって、うちに素直に愛されてくれへん?」

 うちはあんたの言う通り一途やから。

「――」

 空に向かってならいくらでも言えるのになあ、とチリはぼやく。

 パルデアの夜空に浮かぶ上弦の月は、優しくチリたちを照らすのだった。


***

 ――チリちゃん、王子様だね。衣装似合ってるよ。

 学園祭でおとぎ話を題材にした劇をやることになった。チリはクラスの男子を差し置いて王子様役に抜擢された。

 相手役のお姫様はではない。やりたがる女子が殺到したので、くじ引きの結果、チリの友人に決まったのだ。

 衣装合わせをしたらとんでもなく似合ってしまい女子が色めき立った。チリはもみくちゃにされる前にその場から逃走した。

 そして、たまたま小道具を作っていたを発見したので匿ってもらったのだ。

 ――ええんやろか。
 ――何で? 乗り気じゃないの?
 ――王子様言うたら、男子がやるもんやって相場が決まってるやろ。

 当時、自分らしさに迷っていたチリは、少しだけ弱音を口にした。

 この時の本性はまだ明かされていなかった。
 の髪から香るシャンプーの匂いにどぎまぎしていたことを、チリは昨日のことのように覚えている。

 ――別に女の王子様がいてもよくない? 男のお姫様もいたっていい。本人が納得しているなら尚更。自分らしくいられないのは窮屈で退屈で疲れるよ。1本の芯っていうの? そういうのがあれば、外野から何言われたってヘーキじゃない?

 その言葉は面白いくらい腑に落ちた。ならばとチリは自分らしさを貫くことにした。自分を魅せられるなら、別に男らしく女らしくに囚われる必要もないじゃないか。

 今でもずっと大切にしている。
 だからこそ、をずっと想っている。

 これ以上ないくらいとびきりの愛ってやつで、を捕まえてみせるのだ。