その日のチリちゃんは、ちょっと不機嫌だった。
何で分かるのかって?
多分、「おかえり」の声が空気の上の方を滑って、私の耳に馴染まなかったから。
私を出迎えたときのハグが、どこかよそよそしかったから。
あとは、長年の勘ってやつだ。チリちゃんとの付き合いは、友人の期間も含めたら10年単位と長いものになる。
「何かあったの?」と訊ねても「なんもあらへんよ」と返ってくるのは火を見るよりも明らかだ。
まあ、今回こうなった原因は察しがついてる。
「チーリちゃん」
チリちゃんはソファの上に足を抱えて座っていたが、同棲を始めた頃に買ったペアのマグカップを差し出せば、無事受け取ってくれた。
「寝る前だからホットミルクね。ご飯もう食べた?」
「ん」
「起きて待っていてくれてありがとね」
「んー」
普段は明朗快活なチリちゃんだが、図星を突かれたりとか、ポケモン勝負に負けちゃったときとか、こうして何か悩んでいるときは、子どもみたいにちょっと拗ねる。ムキになる。ツンとなる。そして、パルデアの海に快活さを置いてきたくらい静かになる。
付き合った当初は驚いた。ただの友達だった頃には絶対見せてくれなかった一面だ。私に甘えてくれている証拠なんだろう。恋人になってよかったな。本人は「面倒くさい性格でごめんな。気ぃ使わせてもうて」と反省しているようだが、私は全然気にしていない。
「チリちゃん」
私はチリちゃんの隣に座る。
「同窓会楽しかったよ。皆と会うのは大体10年ぶりくらいかな。外見がガラッと変わった子もいれば、もう結婚して家庭を持ってる子もいたよ」
「ん。そうか。仲よかった子は来とったん?」
「来てたよ。今は他の地方でラジオ番組持ってるって」
チリちゃんはマグカップに口をつけた。
「……なあ」
「うん」
「ええ感じの人見つかったら、いつでも別れる準備はできとるからな」
「はいはい」
チリちゃんがこうなった原因は同窓会のせいだ。同窓会へ行くと言ったら「同窓会で出会った男女がそのまま付き合うパターンを知っている」「学生時代は眼中になかったが再会して結婚することもある!」という発言をしたのだ。
別に合コンじゃあるまいし、と既に出席の返事をしていた私は「絶対大丈夫だから!」とチリちゃんをいっぱい甘やかして同窓会へ向かったのである。
チリちゃんは私が浮気をするんじゃないか、という心配をしているのではない。
どうやら私を巻き込んでしまったことに負い目を感じているようなのだ。
私たちは世間一般でいう“普通”のカップルではないから。
思い返せば、チリちゃんからの猛列なアプローチの果てに私たちは付き合うことになった。
私が根負けしてチリちゃんに応じた……とチリちゃんは思っているらしく、やっぱり付き合うなら女性より男性がええやろと言うのだ。同棲までしてるっていうのに!
「は可愛いから、いろんな男に声かけられたやろ?」
「ただの同窓会だよ? そもそも、私を可愛いって褒めてくれるのはチリちゃんだけだよ」
「ウソや」
「本当だってば」
チリちゃんの赤い瞳が揺れている。
「は、出会った頃より可愛なったよ。自分では気付いてへんかもしれんけど、外へ出ると他の男の視線はに向いとったで」
「チリちゃんにも向いてるじゃん。むしろチリちゃんのが多いってば。美人さんって自分でも言ってんのにー」
いらない心配をしないでほしいなあ、チリちゃん。
「大体さ。可愛くなったんなら、それは多分チリちゃんが好きだからだよ。チリちゃんの恋人としてもっと相応しい人になりたくて頑張った結果、可愛くなったんだよ」
この可愛さはチリちゃんだけのものだ。
「あのね、私は
「でも、うちと付き合ってるってなかなか言い出しにくいやろ?」
確かにそうだ。誰が誰を好きになってもいい。性別は関係ない。という風潮になってきたとはいえ、「実は恋人は同性なの」とは切り出し辛い傾向にある。
パートナーシップ制度はあるんだけど、結婚という制度とはちょっと違うし。色々制約もある。
しかもうちの親はどちらも昔気質の人だ。チリちゃんを紹介するのは難しいのだ。
おまけにチリちゃんはパルデアの四天王。この地方では有名人なので、ごく普通の一般人である私を恋人として公表すると、面倒くさい事態になってしまう。だから、私たちは恋人の存在を周りに報せることはできても、詳細は話せないのだ。
しかし、だ。
「今日再会した、仲のいい子には女性と付き合ってるって言ってきたよ」
「えっ」
チリちゃんは目を大きく見開いた。
「ほんまに」
「ほんまにー!」
恋人いないのとしつこく訊かれたから答えちゃった。さすがにチリちゃんの名前は出せなかったけどね。
「超絶イケメンでポケモン勝負が強くて優しい恋人って言ってきた!」
えへんと私は胸を張る。
「それで引かれるなら、そこまでの縁ってことだよ。そもそも仲いいって言っても、同窓会出るまで連絡取ってなかったんだしねー」
幸いなことに、友達は「えっ嘘! すごー! どんな人どんな人」と引かずに私の惚気に付き合ってくれた。これからも彼女とは交流が続くだろう。
「私にはチリちゃんしかいないからさー。だから、別れるなんて悲しいこと言わないでね」
ピースサインを送れば、チリちゃんはぎゅっと唇を噛んだ。
「ほんまにには敵わんわ。悩んどるんがアホらしくなってくる」
「ふふん。私の特性は【マイペース】なので。性格なら『のうてんき』ってとこかな」
「なんやそれ」
お。チリちゃん、いつもの感じに戻ってきたぞ。
「ほんまにチリちゃんといるのがしんどくなったら、ちゃんと正直に言うてな」
「もー。だからないってば。はいはい、覚えておくね。一応」
いくら心配するなって言っても無理なんだろうな。そういう性分なんだろう。
それに、私が大好きだからこそ、私たちが終わって・・・・しまったあとのことまで考えているのだろう。
真面目だね、チリちゃん。
そこが好きだけどね。
「チーリちゃん。目一杯愛するから、チリちゃんも私を目一杯愛してね」
とびっきりの笑顔を見せれば、チリちゃんはぷいっとそっぽを向いてしまう。そしてそのまま押し黙る。
「チリちゃーん?」
「当たり前やろ、そんなん」
ぶっきらぼうな返しに私は噴き出した。
多分この先、同じようなことが問題になるだろう。
その度に私は今日のようにチリちゃんへ愛を伝えるのだ。
まったくの杞憂だよってね。
「んふふ。チリちゃん可愛いね〜」
「……。あとで覚えときや。チリちゃんはな、可愛いだけやあらへんねんで」
「知ってますー」
なんて軽口を言ってたらくすぐられてしまった。私も負けじとチリちゃんをくすぐり返す。チリちゃんは脇が弱いのか「んなっ。ははっ、やめっ! ははは」と笑い出した。勝機! とトドメを刺そうとした瞬間、チリちゃんが私をソファの上に押し倒す。チリちゃんのポニーテールが私の横に落ちた。
「わっ……顔がいい……」
「真っ先に出て来るのがそれかいな」
ガックリ肩を落とすチリちゃん。
「えっ。……もしや、これはキスする流れ?」
「先に言われたらやりにくいわ」
「んー」
唇を突き出す仕草をしてみれば、チリちゃんは軽く笑っていた。
「ほんまに敵わんわ」
その言葉と共に、私の唇はチリちゃんの唇で蓋をされたのだった。
アレキサンドライトの杞憂