チャンプルタウンにある宝食堂に近いポケモンセンターで、私はその人と出会った。
「あの! お客さん!」
去っていくその人を思わず呼び止めてしまった。でも、仕方ないじゃないか。どうにも放っておけなかったんだもの。
「はい?」
振り向いたその人をひと言で表すとしたら「苦労人」だろうか。
瞳は濃い目のコーヒーのように真っ黒で光を通さないような黒。太い眉毛が印象的だ。
細身と言うよりかは痩せ気味。風が吹けば飛ばされるんじゃないだろうか。
オールバックにした髪の毛からは数本、ピョコピョコとアホ毛(?)が。服装は普通の黒いビジネススーツで仕事ができそうなのに、髪の部分で「やる気がなさそう」「うだつがあがらない」なんてフレーズがつきそうなサラリーマンだ。
私はキッチンカーの受け渡し口から身を乗り出した。
「最近、食欲がないっておっしゃってましたよね?」
それがどうした、とでも言うようにサラリーマンは瞬きを繰り返す。
たった一度だけ来てくれた――もしかしたらもう来ないお客さんかもしれないのに――私はこの人を放っておけなかった。ひょっこり顔を覗かせた「お節介」ってやつを、今更引っ込めることはできない。呼び止めた手前、さっさと用件を言うのよ、私。他人の貴重な時間を無駄にしてはいけない。
「あ、あの! ハーブ……、ハーブってお好きですか」
「ハーブ?」
怪訝な顔で問い返される。
「はい。あ、ポケモンに使うハーブじゃないですよ。人。人に使う方です」
「ああ、なるほど。好きか嫌いかで言えば、好き、でしょうか。特に意識したことはないですが」
「よかった。じゃあ、今、お時間ありますでしょうか? あ。いや、なくても大丈夫です。これ、差し上げますので」
私はハーブティーが入った袋をサラリーマンに見せる。
「これ、自分用に作ったものなので、無料で差し上げます。レモングラスとスペアミントのハーブティーなんです」
レモングラスには心を落ち着かせる効果がある。緊張感や不安感を和らげてくれるのだ。また、消化を促進させる効果もある。
スペアミントにも消化促進の効果があり、ガムやブレスミントに使われるミントなので清涼感はお墨付き。レモングラスと合わせることでリフレッシュ効果に期待が持てる。
「食欲不振の解消の一助になると思うんです。あ、私は医者じゃないのであなたの食欲不振の原因は分からない。だけど――」
そう、分からないけれど。なんとなく放っておけなかったのだ。
きっと、サラリーマンと数ヶ月前の自分の姿が重なったせいだろう。
***
数ヶ月前――。
「やめてええええ!! 人に向けて【はかいこうせん】撃っちゃだめええええええ!!!!」
残業が週40時間を超え、お局様からお小言を頂戴し、信じていた同期に手柄を横取りされ、後輩に何かとマウントを取られ、そろそろ私の胃に限界が訪れようとしていた、とある昼下がり。
私のラッキーがセクハラ上司に【はかいこうせん】を撃った。
突然モンスターボールから飛び出し、即発射。
私の臀部をしつこく触ってきた上司は光り輝くビームを受けて数十メートル先まで吹っ飛び、もんどりうって会社の壁に激突。観葉植物として木に擬態していたウソッキーが「ウソオッ!?」と叫んで植木鉢から脱走した。
「う、嘘ぉ……」
ウソッキーの鳴き真似ではない。
いや、いっそウソッキーのように、私もこの場から逃げ出したかたった。
しかし、【はかいこうせん】を撃ったラッキーは私の相棒だ。卵から孵して大事に育てた相棒だ。私だけ逃げるわけにはいかない。
昨日、ノリで覚えさせた【はかいこうせん】を会社で使うとは思わなかった。あれか。家でいつも「クソセクハラ上司をぶっ飛ばせたらなあ」とラッキー相手に愚痴っていたせいか。この子は真面目だから、額面通りに受け取ったんだろうな。こうなるなら、せめて【ちきゅうなげ】にすればよかったか。いやそんな問題じゃない。
「は。はは、あはははは……! ラ、ラッキー先輩半端ないっす……」
「ラッキ!」
褒めて褒めて、と私にすり寄ってきたラッキーの頭を撫でながら、私は脳内で「退職願 書き方」を検索するのだった。
***
意外にスッキリと辞められるもんなんだな。
ラッキーのお陰(?)でド・ブラック会社を辞めることができた。
上司は全治1ヶ月となかなかの重傷だが、慰謝料請求はしないとのことだった。訴えたら、自分の今までの悪行――私以外にも色んな女性社員にセクハラやらモラハラやらしていた――が明るみに出ることを恐れてのことだろう。
「うーん。すっごくいい気分!」
帰宅の足取りは軽やかだ。羽が生えたみたい。今ならどこにだって行けそうな気がする。
空気、吸って吐いているだけなのに、美味しいな。
見上げる夜空は澄み切っていて、星はキラキラ、宝石のように輝いている。
遠くには街の灯りが見える。私の家、エンジンシティまであと少し。
「こんなにあっさり辞められるなら、もう少し早く辞めてもよかったのかな」
腰につけたモンスターボールからラッキーの鳴き声が。その通りだ、と返事をしているような気がする。
エンジンシティのパーパスビルト・フラットの3階。そこが私の小さなお城だ。
管理人さんに挨拶をし(今日は何かいいことでもあったのね、と言われた)、自分の部屋へ。
ドアを開けたら、脱ぎ散らかした部屋着が目に飛び込んできた。
もっと向こうには紙クズ、紙袋、洋服、洗剤、お酒のビン……。泥棒にでも入られたのか、ってくらいの散らかりよう。それか、ここで誰かが【かぜおこし】でも使ったか。
いやいや、私、後片付けが苦手でして。忙しさを言い訳にしていたら、いつの間にかこんなことになっていまして。
「ははは。昨日までそんなに気にならなかったのに。なんなら、昨日この中でひとり酒盛りしたのに、今モーレツに片付けたくなってきたなー?」
「ラッキー!」
ラッキーがモンスターボールから出てきた。あ、手伝ってくれるのね。
あちこちに散らかった洋服や帽子、靴、ゴミなんかを拾い集めながら、私は、ふと思った。
「そうだ。いっそのこと、引っ越しちゃおうか?」
天啓というには大袈裟かもしれないが、突然、脳裏に閃いたのだ。
せっかくあんなやべえ所辞められたんだもん、心機一転、どこかで何か新しいこと始めたらいいじゃん!
会社勤めはしばらくいいや。何か気ままに、私の相棒と一緒に、のんびりゆっくり、リラックスしながら、何かこう、いい感じにお金稼げたらいいよね。
貯金はある。薄給だったけれど、まあ趣味に使う時間帯どころか休む暇もなかったからね。お陰でお金だけはあるんだわ! いやあ、休日出勤なんてもうやりたくないね!
何だろう。テンションハイになっちゃってんの? 無職故の万能感? 気分は〈ハイなすがた〉のストリンダー。
「ああ、そうだ!」
自由になった今なら、いつも心に引っ掛かっていたアレをやれるんじゃないか。
私は書類を入れている小さな棚からクリアファイルを引っ張り出した。
「確か何年か前に手紙貰って……、忙しくて返事もろくにできなかったからなー」
あ、あった。カエデちゃんからの手紙だ。自分のお店を持てたら連絡すると言っていたから、これはその手紙だろう。コンパン柄のレターセットなんてどこに売っているのだろう。会えたらちょっと訊いてみたいな。
封すら切っていなかった手紙を今更ながら読んでみる。
ああ、やっぱりそうだった。カエデちゃん、遊びに来てって。スマホロトムの番号とお店の住所まで書いてくれていた。
――わたしがお菓子を作るから、あなたにはそのお菓子に似合う紅茶を選んでほしいな〜。
――いいよ! カエデちゃんのために、とびきり素敵な紅茶、選んであげる!
ああ、うん。うんうん。
そういう約束、していたっけ?
「……、なあんで忘れていたのかな……」
胸にぐうっと熱いものが込み上げてきて、喉元で押し留めてみるものの、どうにも上手く止められなくて。
くっ、と小さく喉の奥が鳴った。
「ラキー?」
ラッキーがとてとてと近寄り、私の顔を覗き込んだ。
「ラッキ! ラキラッキ!」
ラッキーが慌てて私の目元を拭った。ポロポロ、ポロポロ。熱い雫が目から零れ落ちていく。
私、結構我慢していたのかな? 私がいなきゃ会社回らなくなる、って踏ん張って。四方八方から迫ってくる理不尽にも耐えて。そうしたら、自分が好きだったこと、忘れていって。友達に返事すらできなくなって。
私の心には、何かが足りない。
きっと、何かを失くしてしまった。
それが何だったのか、私は知っているはずだ。
だけど、この散らかった部屋のような心では、それが一体何だったのか掴めない。
「……ラッキー。あの……、あのさあ……。私に、ついてきてくれる?」
「ラッキー!」
どこでもついていく。
つぶらな瞳で私を見つめ返すラッキーを、私はそっと抱きしめた。
それから数ヶ月後。
私はパルデアでキッチンカーを走らせることとなり、チャンプルタウンで顔色の悪いサラリーマンに出会ったのだった。
***
ポケモンリーグの自分のデスクで、アオキはハーブティーの袋を眺めていた。
(食欲不振解消のハーブティー……)
数時間前、チャンプルタウンのポケモンセンター付近で見たことのないキッチンカーが停車していたので、興味本位で立ち寄ったのだ。仕事漬けの日々を送る彼にとって、食事は娯楽。数少ない楽しみのひとつなのだ。新規開拓となればいい、と彼は少し足を止めた。
赤いキッチンカーは、ワッフルやスコーン、サンドウィッチ、紅茶、コーヒーなど、軽食を中心に販売していた。値段は平均的。ランチセットでワンコインのメニューがあり、良心的な値段であった。
店員は若い女性で、ラッキーと一緒に店を切り盛りしていた。客はそれなりにいたが、行列ができるほどではない。
接客が少しぎこちないので、恐らく出店したばかりなのだろうとアオキは思った。
(場所も悪い。チャンプルタウンは宝食堂を中心に様々な飲食店が軒を連ねる街。激戦区とまではいきませんが、まだまだ無名のこの店がチャンプルタウンで生き残るのは難しいかもしれないですね)
せめてハッコウシティやテーブルシティのようにもっと人の多い所に移動すれば、リピーターも増えるだろう。まあ、キッチンカーなので各地を移動しているのだろうが……。チャンプルタウンとは、少し相性が悪いかもしれない。
アオキは直立不動で長考していた。メニューの見目や値段も悪くないので購入してみようか、と思ったところで、腹が満腹を訴えていることに気付く。
アオキはチャンプルタウンのジムリーダー兼ポケモンリーグ四天王である。
今日もジムに挑戦するトレーナーがいるので、宝食堂で昼食を摂りつつ、挑戦者を待っていたのだ。
いつも通り大量の焼きおにぎりと日替わり定食7人前を味わっていたアオキだが、ここ最近、彼の胃は絶不調だった。
通常ならば焼きおにぎりを40個程度たいらげるのだが、今日はその半分も食べられなかった。定食も2人前でやめてしまった。
「アオキさん、どこか悪いんじゃないか」と店員たちに心配されるほどだった。
(自分が不調だという自覚はありますが……)
思い当たる節はある。上司の無茶振りだ。日々のストレスが胃に蓄積されているのだろう。
アオキは左手で腹をさすった。
空腹は究極のスパイスという言葉があるくらいだ。今の状態では、料理に失礼である。せっかくなら、万全の状態で味わいたいではないか。
「最近食欲がないので、次の機会にでも」
そう呟いて回れ右。タクシーを呼ぼうと歩き出したところで、
「あの! お客さん!」
凛とした声に呼び止められたのだった。
(レモングラスとスペアミントのハーブティーは、非売品だと言ってましたね。つまり、彼女が個人的に作って飲んでいるものだ)
そして現在、アオキは貰ったハーブティーを持て余していた。小さな紙袋からは、ハーブ独特の澄んだ匂いがする。
(どうして、これを自分に渡したのでしょうか。そして、どうして自分は受け取ったのでしょうか)
アオキは目を瞑った。瞼の裏に、心配そうな顔でハーブティーを手渡した女性店員が浮かび上がる。
もう二度と会うことはないだろうに、何故、ハーブティーを渡してくれたのだろうか。
営業の一環とは考えにくい。接客のぎこちなさからして、打算など一切なかったと思われる。
――食欲不振の解消の一助になると思うんです。あ、私は医者じゃないのであなたの食欲不振の原因は分からない。だけど、あなたが元気になればいいなって。少しでも心と身体が休まればいいなって、おも、……って、スミマセン! 私、何言ってんだか。と、とにかく、どうでしょうか。あ、あはははは。
彼女は頬を赤く染めて、ぺこぺこと頭を下げていた。
優しさが、沁みた。アオキの、砂漠のように枯れた心に、少し、水が注がれたのだ。
すぐに乾いてしまうだろうが、それでも、残るものは確かにあった。
アオキは、ふうと小さく溜め息をついて立ち上がった。給湯室へ行くために。
カフェイン漬けの日々を送っているので、ハーブティーは未知との遭遇だ。
上手く淹れられるか分からないが、貰ったからには、きちんと飲んでおきたかった。
それが、あの女性店員の気持ちに――誠意に応える方法だと思うのだ。
給湯室でお湯を沸かしながら、アオキは食器棚からガラス製の、ぽってりとした丸いティーポットを見つけた。
淹れ方は女性店員からあらかじめ聞いていた。といっても、特別難しいことはない。ティーポットに貰ったハーブを入れていくだけだ。熱湯を注ぐ。蒸らし時間は3〜5分。
レモンのような爽やかな香りが立ち上る。スペアミントの匂いと相まって、ほのかに甘みも感じた。
(頭がスッキリとするようですね)
5分が経過したので、アオキは自分がいつも使っているマグカップにハーブティーを注いだ。職場でいつも使っている、黒の、何の面白みもないマグカップだ。
透明感のある薄緑色の液体からは、清涼感のある匂いが漂っていた。
ひと口飲むと、口の中に爽やかな風が吹いたような心地になる。
まるで頭を撫でるように吹き抜ける風のようだ。
これは、春と夏の間だろうか。
スーツの上着を脱いで、額にうっすら滲んだ汗をハンカチで拭うような。
青空を見上げてイキリンコたちの飛ぶ姿を眺め、人の気配を感じて逃げ出してしまったノノクラゲの後ろ姿を見送るような。
アオキはどこか満たされた思いで溜め息をついた。
すぐに効果が出るものではないが、気分のリフレッシュにはなったような気がする。
気怠さも、今だけはどこかに飛んでいってしまったようだ。
「お疲れさん――って、アオキさん。何飲んどるん?」
給湯室にやって来たのは、ポケモンリーグ関係者のチリだった。
「ええ匂いやな」
ん、とチリはマグカップをアオキに差し出す。
「何ですか、それ」
「チリちゃんにも1杯」
「……」
アオキはチリを一瞥して言った。
「あげませんよ」
これは、自分のだ。
唯一無二の、まごころが形になったものだ。
ケチやなあという言葉を聞き流しながら、アオキはハーブティーを啜る。
きっと今日もあのキッチンカーは――マルベリーという名のあの店は、パルデアの各地を巡っているのだろう。
今度は食事をしよう。
アオキはハーブティーを最後の一滴まで飲み干したのだった。
【終】
上司にはかいこうせんでブラック会社を辞めたので、パルデアでキッチンカーを走らせます