憧れを唇に

「どれがいいんだろう」

 現代日本で女子高生をやっていた私は、とあるショップのメイク売場で頭を悩ませていた。

 今日のお目当てはリップグロス。たまたまマジカメの広告で流れてきた“それ”をひと目見た時から、私の心は奪われてしまった。ルーク先輩風に賞賛するなら「ボーテ! 実に美しい」だろう。

 ああ、早く選ばなきゃ。外出についてきた3人(厳密には2人と1匹)を近くのカフェで待たせている。

「テキトーでいいじゃん」「悪い、監督生。僕にはさっぱりだ」「食いもん買った方がいいんだゾ!」と三者三様の返答があったのはちょっと面白かった。

 ……でもさあ、ついてきてくれてもいいじゃん。いや、隣でブーブー文句言われるのも嫌だけど。心細いからグリムでもいいからいて欲しかったかも。

「私って何タイプ? ブルベ? イエベ? だったら、これ?」

 キラキラと宝石のように輝くパッケージたとにらめっこ対決。

 あーあ、何でこんなに悩んじゃうんだろう? こんなことなら話しかけてきた店員さんに素直にアドバイスを貰えば良かったのだ。身綺麗さに気後れして断ってしまったのだ。

 ツイステッドワンダーランドに来る前は、私、女子高生をやらせてもらっていた。バイトで貯めたお給料やお年玉、お母さんから貰ったお小遣いをやり繰りし、友達とリップやアイシャドウ、チークなんかを選ぶのが好きだった。

 結構私、判断力あると思っていて。いつまでも優柔不断な友達をからかっては、さっさと試したい新色のリップを買っていたのにね。

 ツイステッドワンダーランドで「監督生」と呼ばれるようになってからは、色々、ままならないことが増えた。特に金銭面とか。本当は、リップグロスを買う余裕なんてないんだ。

 でも、あの広告を見てから、私は魔法にかけられてしまった。

 ああ、こうなりたい。
 彼のように美しく。
 このリップグロスが似合う人に。

 ええいこれだ、とお目当てのリップを掴んだその時、「ジャガイモ、その色はアンタに似合わないわよ」と声をかけられる。

 ほんの数cmの距離に輝かんばかりの美しい人がいた。

「ぎゃっ! ヴィル先輩?」
「なによ、大袈裟に飛び上がって」

 私は2、3歩飛び退った。いやいや、だってそんな反応にもなる。美しいそのご尊顔が私の約10cm範囲内にいるのだから。

 今は胡乱な視線をこちらに向けているが、それすら絵画になりそうだ。

「アンタ、いつ声をかけても奇っ怪な行動するわよね」
「それは――その、ヴィル先輩、なので……」

 憧れの存在と会話できるのが嘘みたい。夢じゃないんだろうか?

 ヴィル先輩は眉を八の字に下げ「目を合わせて話しなさいよ」と呟いた。

 どうやらヴィル先輩もメイク用品を買いに来たらしい。ナイトレイブンカレッジがある「賢者の島」は辺鄙な場所にあり品揃えがビミョーなものが多々ある。メイク関連もそのひとつだ。

 このショップはまあまあメイク関連の品揃えが良い。ヴィル先輩もそれを知っていて、ここにやって来たのだろう。ヴィルさんを見つけた店員さんが遠くからニコリと笑顔を作り一礼した。常連なのだろう、きっと。

「で? さっきからここでウンウン唸っていたけれど、このリップグロスが欲しいの?」

 ヴィル先輩は私が買おうとしていたリップグロスを手に取った。

「さっきも言ったけれど、アンタにはこの色は似合わない」

 バッサリと言い切られてしまう。

「アンタがつけるなら、これとこの色ね」

 ヴィル先輩はオレンジ系とピンク系のリップグロスを選んだ。

「アンタが買おうとした色だと派手すぎるわ」
「そうでしょうか」
「持て余すわよ」
「でも私は、この色がいいです」
「やけにこだわるわね」

 それは、と口から出かかった言葉を飲み込む。本人を前に告白していいものだろうか。裸を晒すようで恥ずかしい。

 大きく息を吸って、吐いて。ヴィル先輩のアメジストのような瞳と目を合わせる。

「な、なりたくて」
「なりたい?」

 私は何度もうなずく。

「ヴィル先輩の、色、なので。広告の写真でその色、つけていた、から」
「……あぁ。アンタ、あれを見たの」

 目の前のヴィル先輩と、マジカメの広告で見かけた写真が重なる。

 写真は白黒。
 唇に乗せられた赤だけが、その広告の唯一のカラー。
 強烈な紅。毒になってしまいそうなくらいの、赤。
 余所見をしたら許さない。私だけを見つめていなさい。

 こちらを覗くアメジストは私の心に呪いをかけた。

 ――ああ。あぁ。なんて。なんて美しいのでしょう。

 なりたい。

 美しく、なりたい。

 この人のように。美しさを追い求めたい。

 今は化粧水をつけるのが精いっぱい。おしゃれは色つきリップくらい。向こうの世界でやっていたおしゃれができなくて、悔しくて、思い通りにいかない毎日だけれど。

「ヴィル先輩は、憧れだから。だから、少しでも近付きたい……。美しく、なりたいんです……。あの広告に惹かれて、私はその色が欲しくて……」

 先輩は数度瞬きを繰り返したあと「そういうこと」と呟いた。綺麗、美しい、憧れ。そういった賞賛は今までシャワーのように毎日浴びてきたのだろう。特別何かを気にする素振りはない。

「ねえ、監督生」

 ふいにヴィル先輩が私に近付いた。私は小さく悲鳴を上げる。いやだからホントそのお綺麗なご尊顔が私の近くにあると精神的に死ぬ!

「アンタ化粧っ気はないけれど、毎日のスキンケアは怠っていないみたいね」
「はい。基礎は大事なので。あと、お金があったら毎日メイクはしてます」
「肌の状態はいいわね」
「水も毎日2Lは飲んでいるし、食事も遅い時間は控えているし、朝のジョギングもしてますので」
「たしかに毎日同じ時間帯に見かけるわね。声をかけると逃げるけれど」

 それは憧れのヴィル先輩と朝から顔を合わせるとやっぱり精神的に死ぬからです。

「まあ、及第点をあげていいわ。エペルも見習いなさいったら」

 そして私から離れると、私が好きな色だと言った色のリップを掴み「アタシが買ってあげる」とのたまった。

「えっ。何で!」
「努力への見返り、かしら」

 ヴィル先輩は自分の頬に手を当てた。

「あら。しっくりこないわね。そうね……。アタシがアンタに何かしたくなったから、って答えの方が近いかもしれないわ」

 ただし、と白魚のような指が私に向けられる。

「すぐには渡さない。もっとこれをつけるのに相応しい美しさを身に付けてからにして。それまでこのリップグロスは預かるわ。いいわね」
「えっ、あっはい……?」

 もっと努力しろと叱咤激励されているらしい。

「それはもちろん、望むところです」
「トレーニングとか美容法とか教えてあげる。スマホ出しなさい」
「えっ」
「ほら早く」
「アッハイ」

 そこから連絡先を交換し、軽く美容法などを教えてもらい、ヴィル先輩は例のリップグロスと一緒に数点のメイク用品を買い、「じゃあ週1でレッスンするわね。詳細はあとで」とショップの前で別れた。

「……夢?」

 スマホにはしっかりヴィル先輩の連絡先が登録されている。夢ではなかった。嘘でしょ。

「嘘でしょー」

 ヴィル先輩から直々にレッスンを受けるだって? 何で? どうしてこうなった? 嫌ではない。嫌ではないが、私はポムフィオーレの寮生やヴィル・シェーンハイトファンに刺されやしないだろうか? あ、こっちだと魔法で襲われたりするんだろうか。怖い想像ばかりしてしまう。

「へ、へへへっ」

 口の端が引くつく。美しさからかけ離れた気味の悪いニヤニヤ笑いを、今はどうしても止めることができなかった。

 いつか、あの憧れを唇に乗せる。


【終】