どんな関係か分からなくなった子だなあ、と思いました。

 頭の中は真っ白だった。
 視覚と触覚以外の五感は機能していなかった。

 私の世界には黒子君しかいなかった。

 1時間くらい経ったんじゃないか、それくらい長かった。でも実際は10秒もなかったんだと思う。黒子君は唇を離し、

「すみません」

 と、一言謝った。ここで聴覚が回復した。私は唇をなぞっていることに気付く。無意識に手を動かしていたようだ。柔ら、かい。

 いや、黒子君のも――、

「ええ……」

 間抜けな声が喉から零れ出た。目が潤む。パッと口を押えた。それを見て黒子君は何か言いたそうにしていたけれども、

「応援しています、2人の事」

 謎の言葉を送り、その場を離れた。ふわり、バニラのような甘い匂いが私の鼻孔をくすぐった。……ここで嗅覚が回復した。



「ど、どういうこと……?」

 よろよろと本棚に背中を預ける。心臓は悲鳴を上げる。嬉しいのか、何なのか。自分でもよく分からない。頭がこんがらがる。整理が追い付かない。

 予鈴が鳴るまで、私はその場から動くことが出来なかった。


***


 午後からの授業は最悪だった。

 火神君との約束をちゃんと果たした5時間目だったけれど、何だか頭がぐるぐるして集中出来なかった。火神君が先生から指名されて答えてる間、小声で教えてあげたり、紙に書いていたけれど、その間黒子君が気になって気になってしょうがなかった。好きだと思った頃は、隣の席でラッキーって思う毎日だったのに! あんなこと、あんなことするから……! 全然落ち着かないよ!

 こっそり様子を窺ってみれば、黒子君は脇目も振らず板書している。なんだか空しくなる。

 私だけなの?
 動揺してるのは私だけなのかなあ?
 それにどうしてキスしてきたの?
 火神君の名前が出てくるのは一体どうして?

 そればかりが頭を占めていて、授業中は上の空だった。



、大丈夫なの?」

 6時間目の授業は体育だった。今はバレーをやっている。女子で組み分けしたチームは全部で5つ。ローテーションでミニゲームをやっているので、私たちの出番はまだやってこない。他のチームの試合を、体育館の壁に寄り掛かって観戦しているところだった。

「え、大丈夫だよ?」
、ホントに保健室行かなくていいの?」

 ああ、黒子君のことばっかり考えて返事が疎かになっちゃうよ。友達が心配そうな顔で私を見ている。

「うん! 本当に大丈夫!」
ってさ、大丈夫じゃない時ほど大丈夫って言うよね。それきっと大丈夫じゃないよね」
「そうなの?」
「そう」

 ま、まあ確かに大丈夫とは言えないけど。まさか黒子君とのキスの事、言うわけにはいかないよね。は、恥ずかしいし。それに、どう説明していいものか分からない。


「ねえ、迷惑かけたくないのかもしれないけどさ。友達放っておけないの。そんなに私たち、頼りにならないのかしら」
「そんな! むしろ、気にかけてくれて嬉しいんだからね。ただ、どう説明したらいいのか分かんなくて。あ、黄瀬君絡みで嫌がらせってわけじゃないのよ?」

 下手したら、黒子君の株下げちゃうもの。付き合ってもいないのに何してんの、って。チャラいんじゃない、みたいな。

 いや、黒子君は断じてそんな人じゃない。短い付き合いだけど不誠実なことしない人だ。そこは断言出来る。

 嘘も冗談も苦手だって言ってたもの。

 でもそうなると、黒子君は私に本気でキスしてきたことになる。それは……、どう考えればいいの? だって、付き合ってもないんだし。す、好きって言われたことないし。

 火神君がどうとか言ってたけど、それと何か関係あるのかな? 思い当たる節が全然ないんだけど、どうしたらいいんだろうか。

「こーら、1人で考えないの」
「あ、ごめん」

 友達にたしなめられた時だった。

「危ない!」

 体育館中の熱気を切り裂くような、そんな大声が耳に飛び込んできた。

「え」
「あ」

 私と友達は、目線を逸らしコートの方へ注目する。

 飛び込んでくるバレーボール。
 名前を呼ぶ友達。

 全てがスローモーションのように動いていく。

 あ、ぶつかる。

 その瞬間、顔面にボールが直撃した。


***

 ボールをまともに受けた私は鼻血を出してしまい、友達に付き添われて保健室に来ていた。

 白熱した試合の中、クラスメイトが放った渾身のスパイクがコート外に出てしまったらしい。ごめんねノーコンで、とそのスパイクを放った本人も保健室まで付き添い謝ってきたのだった。

「ううん、いいの。私もボーっとしちゃってたから。気にしないで。一生懸命やっただけじゃない」

 そう言って笑顔を見せたけど、鼻にティッシュを詰めた私じゃ、間抜けだったかもしれない。

 この際だから、と私は保健室のベッドを借りて休むことにした。友達も、私の様子がおかしいのは分かっていたので「やっぱり調子悪いんじゃない」なんて、膨れっ面になっていた。

「ホームルーム終わったらの荷物持ってくるね。今日は一緒に帰ろ」
「うん、ありがとう」
「ごめんね、さん」

 友達はカーテンを閉めていった。ガラガラと扉の音がしたので、ボールをぶつけたクラスメイトと一緒に出て行ったのだろう。私は溜め息をひとつ零して寝返りを打った。

 キスで動揺して、そんでもって考え事に集中しすぎてボール避けそこなったとか、

「間抜けだなあ」

 こうしていると、また、あの時のことを考えてしまう。

 黒子君の唇、柔らかかったなあ。それで、いい匂いしてたなあ。

 そこまで考えて、ハッと我に返る。こ、こんなこと思い出すなんて、私変態じゃないか!
 顔が熱くなって掛け布団を引っ付かんで丸くなる。ああ! 恥ずかしいよう!


 どうして、私にキスしてきたのか。

 ……いくら考えても分からない。結局はその問題に戻ってしまうから。色んなことを考えていたら、ここ最近夜更かしをしていたせいか、瞼が重くなっていった。


***


 保健医は用事で保健室にいないらしい。机には誰もいなかった。カーテンがひかれたベッドの方へそっと歩み寄る。カーテンを退けると、が寝息を立てて眠っていた。

さん……」

 ……黒子は申し訳なさそうにを見つめていた。バレーボールがぶつかって保健室へ行くのことを聞いたからだ。心配で授業が終わったあと、こっそり様子を見にきたのだ。

「きっと僕のせいですね」

 黒子は衝動のままに行動したことを恥じた。火神のものになるなら、と。最後のつもりで思わずやってしまった。優しい彼女のことだから、考えて考えて考えすぎて、いっぱいいっぱいになってしまったのだろう。

「すみません」

 謝ってもどうにかなる問題ではない。そう思っても、そうしなければ済まないこの気持ち。なんて、自分勝手なのだろうか。

 好きだから、
 好きだからこそ、

 もう、諦めなければいけない。

 バスケでどんな強敵にも諦めないで戦ってきた。
 それに比べたら「告白」は簡単だったはずなのに。

 どうしてこうにも伝えられなかったんだろうか。


 黒子はしばらくを見ていた。そっと手を伸ばして――頭に触れようとして――やめた。

 あの事は忘れてしまって欲しいと勝手な願いを胸に。黒子は伸ばしかけていた手を握りしめた。