桃井さつきは、2人の恋を……。
それは、何の変哲もない日曜日のこと。
この日は友達を誘わず、私はひとりで本屋に来ていた。そこは喫茶店と併設された本屋で、お会計を済ませる前の本でも、喫茶スペースで本を読めるらしい。
本当はテツヤ君と一緒に来たかったけれど、あいにく用事があるから、と断られてしまった。残念そうな顔してたなあ、テツヤ君。ふふ、あの時の顔、思い出したら笑えてきた。可愛いんだもん。
今回ここに来たのは下調べのため。テツヤ君とデートする時、色々案内出来ると思ったからだ。じっくり店内を歩き回ってみたけど……。やっぱりいっぱい本があるとこって落ち着くなー。
目についた本を手に取ってみたら、著者がニーチェだった。……テツヤ君、確かこの哲学者の本よく読んでたよね。
あれ、隣の本も哲学書だ。著者はデカルト、カント、ソクラテス、モンテスキュー? どうやら私、いつの間にか哲学書が並んでいるコーナーに来ていたみたい。
テツヤ君とは本の趣味は似ているんだけど、私は哲学書って読んだことないんだよね。難しいかも、となかなかチャレンジ出来ない。そういえば、私にも読みやすいものを薦めてくれたっけ。ここにないかな?
と、本を探し始めた私に、
「こんにちは、さん」
なんて、後ろから声をかけられた。
え、私の知ってる人? 慌てて振り返ってみると、そこには――
そこには、目の覚めるような美少女が立っていた。
彼女は、細かな白いレースのインナーと薄い黄色のジャケットを羽織っていた。スラリとした足には、濃いピンクのパンツがよく似合っている。ホント、自分のスタイルをよく理解して履いてるって感じ。
それに、明るい髪色のロングヘアーはサラサラと流れていて、触り心地が良さそう。垂れ目が魅力的な美少女だと思う。
でも、挑発的な視線を向けてくるのは、何で?
私、何か知らないうちにこの人に迷惑かけてたのかな!?
というか、私の名前呼んだ? 知り合いじゃないよね? こんな美人さん、一度見たら忘れられない。うん、初対面のはず。
「あの……、どちら様ですか?」
「誠凛高校1年B組、さん」
「ええ……」
私、自己紹介してないのに、
「何で知ってるのって顔ですね。初対面ですけど、知ってますよー。文芸部所属、黄瀬涼太と噂が一時期あって、それから――」
私の個人情報が、この美少女の口から語られていく。何で、本当にそれ知ってるのかな!? 身長・体重・胸囲まで知ってるとか、この人何者なの。何で名乗ってくれないのかな!?
もう、私の頭の中は疑問符でいっぱいだった。混乱するよ! 蛇口から流れる水のように、すらすら淀みなく話した彼女は、最後に小悪魔のような笑みを浮かべてこう言った。
「初めまして。私は、テツ君のカノジョです」
…………はい?
「え?」
私、たっぷり10分は固まっていたんじゃないかな。そのくらい驚いたから、全く言葉が見つからなかった。やっと出てきた単語が「え?」なんて、私、本当に……、この人が何を言っているのか分からない。
「カノ、ジョ?」
「ええ、そうですよ」
「テツ君って、黒子テツヤ君のこと?」
「もちろん」
この美少女の話し方、嫌だ。見下されるような感じで、嫌だ。
ほっぺたを抓ってみた。左ほっぺに痛みがある。ああ、これ夢じゃない。
「そんな、……そんなわけないです」
身体の奥底から、振り絞るような声が出た。
「て、テツヤ君のカノジョは! 私です!」
テツヤ君と私が付き合い始めたのは、つい最近のこと。まだそんなに日数が経ってないけれど、ちゃんと、告白して、好きって伝えた。
あの教室で。夕焼けの中で。
屋上で。2回目のキスも、して。
私の主張を余裕たっぷりに受け止めた美少女は、
「本当に? テツ君が二股かけてるとか思わないんですか。あなたは遊びで、私が本命とか、思わないんですか?」
「え?」
何、言ってるのこの人。
ふふ、と薄く笑って、美少女は続ける。
「どうして、今日テツ君と一緒にいないんです? 何の用事か訊きました?」
「何でも知ってますね……。テツヤ君の用事が何かは知らないですけど」
「私とのデートを優先したから、と言ったらどうしますか」
「ゆう、せ……」
一瞬、頭が真っ白になった。
テツヤ君が、二股かけてる?
この人の言い方だと、まるで私が2番目みたいな言い草だ。この美少女が本命で、私が、私が……。
真っ白になった頭に思い浮かんだのは、テツヤ君がバスケをしている姿だった。
お腹にポトリとマグマが一滴垂らされたかのように、お腹から熱いものがこみ上げてきた。私は大きく息を吸って、落ち着けと言い聞かせる。
でも、ダメだった。
まるで山が噴火するかのように、言葉がどっと溢れ出てきたから。
溢れたのは、言葉だ。
言葉の、噴火だ。
そう。私、今猛烈に怒ってる!
「ないです! テツヤ君が二股かけてるとか! あなたの話を鵜呑みにして、テツヤ君は最低とか、そんなの、思わない!」
真っ先に飛び出したのは、この言葉。
「バスケが大好きで、嘘が苦手で、真面目で、負けず嫌いの男の子なんですよ! だいたい、別れたいと思ったら、はっきり言うと思います。それで私とけじめをつけてから、他の人と付き合うと思うんですが!」
変なことを言ってる自覚はある。あるけど、
「いつも、優しいんです。誰かを傷つけることはしないんです。テツヤ君は、嘘をつく人じゃないです」
「そんなテツヤ君だから、大好きになったんです」
私の憧れの人。
好きな人。
つり合いたい人。
もう一度チャレンジしようと思わせてくれた人。
隣に立って傍にいたいと思わせてくれた人。
嘘をつく人じゃない。そんな男の子じゃない。
「だから、……嘘をついているのは、」
「そうですね、私ですね」
美少女は、……美少女は、申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「え、えっと……?」
あれ、さっきと打って変わって、雰囲気が違うのだけど。
「ごめんなさい。嘘です。私はテツ君と同じ中学出身の、バスケ部マネージャーです」
「え?」
え?
「今は、桐皇学園のバスケ部マネージャーをしている、桃井さつきです」
***
土下座したい。今なら綺麗な土下座をきめて謝罪出来ると思うの。
うん、……嘘は良くないけど。
例え、テツヤ君が好きだとしても。
テツヤ君に恋人が出来てショックになったとしても。
悔しかったから、イタズラして恋人に相応しいのか試してみたくなったとしても。
怒ってしまったのはダメだよね。初対面なのに……。
という感じのことを、美少女――じゃなかった、桃井さん、桃井さんに話したら、「むしろ全部悪いのは私だから」と逆に謝られた。
「うーん、そう……なのかな」
「そうだよ。ごめんね、本当に」
桃井さんはさっきから「ごめんね」しか言わない。
〈テツヤ君二股疑惑事件〉から30分後。私たちは、本屋に併設された喫茶店に来ていた。私たちの席には、注文したアイスティーが2つ並べられている。どっちのかは分からないけれど、カラン、と氷が音を立てた。
私はアイスティーを一口飲んだけど、桃井さんの方は手をつけていない。さっきから、ずーっと眉毛が八の字なんだよね。「ごめんなさい」の気持ちがオーラとして滲み出ているから、手に取って触れそう。
落ち込むくらいなら、最初から嘘をつくなと思うかもしれない。
でも、嘘をついてしまった事情を聞くと、どうしても責められない。
桃井さんは、テツヤ君が好きなんだって。
きっかけはちょっと変わっていたけれど、惹かれる気持ちはよく分かる。私も同じことをテツヤ君にされたら、桃井さんのように恋に落ちていたと思う。
桃井さんには幼馴染みがいて、その人と一緒の高校に入学したらしい。心配で放っておけなかったんだって。
それから桃井さんは、テツヤ君を思い続けながら、勉強もマネージャー業も頑張っていたらしい。
でも……。テツヤ君に恋人(私)が出来たと聞きつけて、耳を疑ったらしい。信じたくなかったんだって。そして、その事実を確認して……どうしようもなく悔しかったそうだ。
……分かるよ。テツヤ君が私と出会う前に桃井さんと付き合っていると知ってしまったら、本当に悔しいと思う。悲しくて、ツラくて、その恋人の方を恨んじゃうかもしれない。
だから、だからほんのちょっと試したくなって、私に嘘をついてしまった――その経緯と心情は、なんか、分かるんだ。
完璧に全部は分からないよ。だって、私は桃井さんではないから。
でも、「もしも」を想像してしまったら、桃井さんを簡単に責められない。もちろん、悪いことだよ? 悪いことではあるけれどさ……。
「試すような真似してごめんなさい。さすが、テツ君が選んだ女の子だね。とっても優しくて、素敵な子をカノジョにしたんだね」
桃井さん、褒めるのやめて。慣れてないから!
「そんなことないから!」
「あるよ。そうじゃなきゃ、私とこうして喫茶店で話してないと思う」
「だって、なんか色々、同情しちゃって……。桃井さんこそ、『同情とかいらない』とか思わないの?」
「……私の嘘を鵜呑みにしてテツ君を責めるような性格だったら、嫌いになってたと思う」
そんな性格じゃなくて良かった。いや、代わりに桃井さんを責めたんだけども。
「でも、試す必要なかった。だって、あなたはテツ君のために怒っていたから。テツ君は嘘をつかないって、断言したじゃない」
「う。うん……? いや、でも! でも、あの……うん……」
冷静になって考えると、初対面の桃井さん相手に本屋で口論とか恥ずかしいんだよー。顔から火が出るくらいだよ!
しどろもどろになる私を見て、桃井さんは――ほんのちょっとだけど――笑ってくれた。それは、嘲るようなものではなかった。多分、彼女の素の笑顔なんだろう。
「さんって、可愛いね」
「えぇっ? 桃井さんこそ何言ってるの? 可愛いのは桃井さんだよ!?」
「ううん、さんが」
「いやいや、桃井さんが」
「さんが」
「桃井さんが」
後で時間を確認して分かったんだけど、このやり取りで、更に30分くらい時間を消費していた。
***
いつの間にか話題が移り、桃井さんと「テツヤ君のここが萌える」みたいな語り合いをしていた。ついでにバスケの話から幼馴染みの男の子の話になり、和気藹々としていたら、もう夕方になっていた。明日は月曜日。明日からまた学校だし、早く帰らないと。
本屋から出ると、空は淡いオレンジ色に染まっていた。まだ昼のように明るくて、夜の気配は小指ほども感じない。
「それじゃあ、私はこれで」
「あっ、待ってよ桃井さん!」
立ち去りそうな雰囲気を出していた桃井さんを、私は引き止めた。彼女と話していて、ずっと考えていたことを、話してみよう。
「桃井さん。嫌なら嫌って言って?」
「う、うん。何?」
桃井さんは不思議そうに首を傾げて、小さくうなずいた。
「その、……もしも、吹っ切れたら……。時間が経って、もう大丈夫って笑えるようになったら……友達になってくれる?」
え、と桃井さんの唇が動いた。声は出ていなかったけれど、多分そう呟いたのだと思う。
「桃井さんとの会話、楽しかった。出会い方は最悪だったけど、本当の桃井さんは明るくて優しい子なんだろうなって思ったの」
テツヤ君の話をしている時の桃井さんは、それはもう、可愛い恋する乙女のようだった。
バスケの話をしている時の桃井さんは、まるでバスケの選手のようだった。
幼馴染みの話をしている時の桃井さんは、まるでその人の家族のような慈しみを持っていた。
それに、幼馴染みと同じ高校に進学した桃井さんは本当に優しい女の子だと思う。なかなか出来ないよ、好きな人より幼馴染みのために行動するなんて。
根っからの「悪い人」じゃないんだ。今回は、仕方なかったんだ。
恋愛に優先順位なんかない。出会いが先か後か、相手と何年の付き合いかとか、恋愛にはそんなの関係ないんだ。
「……」
「図々しいかもしれないけど、友達になりたい。いつでもいいの。桃井さんとまた会って、たくさん話したい」
桃井さんはずっと黙っていた。黙って、私を見ていた。
数十秒ほどの沈黙から、彼女に変化が訪れた。驚きの表情から困惑に変わり、ついには唇を噛みしめていた。しかも、目には薄っすらと涙が浮かんでいる。どうしよう、泣かせるつもりはなかったから、私はすごく慌てた。
「桃井さん! ごめん、やっぱり今の言葉なしで」
「ううん! 嫌じゃないの! ありがとう。嬉しくって、なんか……、涙脆くなっちゃったな、私……」
涙を指先で拭い、桃井さんは照れつつも返事をしてくれた。
失恋の傷は、簡単には治らないらしい。
治るとしたら、それは新しい恋。もしくは、時間。それか……、自分を磨くこと。
私たちは、高校生。まだまだたっぷり時間はある。そんな出会いがあったね、と笑い話に出来るほど、たくさんの経験をしたい。
そんな時が、桃井さんと私の間にきっと、訪れますように。